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【平将門の乱】
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敵の中に「お役人様」がいて立場危うし
将門と護は朝廷から「こっちで裁判するから二人とも出頭するように」(意訳)と言われ、おとなしく上京しました。
もちろん二人一緒に行ったわけではなく、将門のほうが先に京へ到着しました。そして自分の立場や経緯を訴え、大赦を得て帰国しています。
いち早く上京したことや、陳情で勝っている(?)ことからすると、当初の将門はごくまともというか、決して恐ろしい人物ではない感じがしますね。
とはいえ「やればやり返される」のもまた当然の話です。
将門は再び自身の領地を攻められ、一時は本拠にまで敵の侵入を許してしまいました。
その分もやり返していますが、ここから話がややこしくなってしまいます。
「将門にとっての敵」である人物の中に、中央政府から何らかの役目を与えられていた「お役人様」がいたことから、次第に将門の公的な立場が危うくなっていくのです。
現代でいえば「民事裁判で争っていたところ、敵の中に裁判官や警察官がいて、なんだか不条理だけど自分がヤバくなってきた」という感じでしょうか。
そしてそれがハッキリしてしまったのが、天慶元年(938年)のことです。
さらには国司を敵に回して絶体絶命
このころ将門は、武蔵の国司vs足立郡司の争いに介入していました。
さらに翌年、常陸国の住人・藤原玄明(はるあき)の訴えを信じ、常陸国府を攻略して国司から印鎰を奪うなどの暴挙を働いてしまいます。
国司は朝廷から任じられてこの地にやってきているわけですから、その権力の証である印を奪うことは、朝廷への反逆も同然。
これよりも後の時代に成立した「将門記」という書物では、この後に将門が自ら「新皇」と名乗って朝廷へ反逆する姿勢を明らかにし、城を建てて役人の任命などもしていた……とされていますが、それがどこまで本当なのかはわかりません。
将門記の著者が不明な上、当時将門の近辺にいた人物ではなく、「都で将門のことを伝え聞いた知識人」だろうといわれているからです。
いずれにせよ、国司から印を奪った時点で、朝廷としては将門を放置しておくわけにはいかなくなります。
大ピンチ!
朝廷は、東海道・東山道に追捕使を任じ、藤原忠文(藤原式家の人)を征東大将軍に任命。
「将門を討った者には褒美を与える!」と他の土豪たちにもお触れを出して、本格的な将門討伐にかかるのです。
その中でいち早く動いたのが、下野国の押領使だった藤原秀郷でした。
彼は奥州藤原氏の祖先でもあります。
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後に源義経が逃げ込んだことでも知られている奥州藤原氏ですね。
この辺、歴史がつながっていてオモシロイところです。
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