こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【清少納言】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
再婚した藤原棟世との間に娘が生まれる
その前後に、藤原南家の人で摂津守を務めていた藤原棟世と再婚し、一時は彼の任国である摂津に身を寄せていたようです。
ちなみに、棟世は清少納言より20歳は上だったと推測されていますが、上東門院小馬命婦(じょうとうもんいんこまのみょうぶ)と呼ばれる娘をもうけています。
この年齢差で子供ができて、さらに母子ともに無事というのは、当時の健康状態や衛生を考えると地味にすごい話でしょうね。
上東門院とは藤原彰子のことなので、小馬命婦は母親の主人のライバルに仕えたことになります。
史実の藤原彰子(道長の長女)はどんな女性?道長・式部・一条天皇との関係は?
続きを見る
「小馬命婦」という名前の女房が別の時代にもいるので、区別のためにこう呼んでいるのですが……いくらなんでも長すぎ(´・ω・`)
彰子の出家と院号宣下が万寿三年(1026年)ですので、清少納言の娘が出仕したのはその頃と思われます。
仕えはじめたのがずっと前で、院号宣下の後に呼び名が変わった……ということも考えられますが、はっきりしません。
また、彰子の女房といえば紫式部ですが、上東門院小馬命婦が出仕したのがいつ頃のことなのか、両者の関係はどうだったのか。
気になる清少納言と紫式部の関係性は不明です。
なんせ清少納言・紫式部・上東門院小馬命婦の三人とも生没年すら不明ですので。
清少納言自身は、晩年に父・元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたといいます。
和泉式部(光る君へ あかね)は親王や貴族を虜にする“あざとい女”だったの?
続きを見る
文献上に彼女が出て来る最後の記述は、兄弟の致信が寛仁元年(1017年)に殺害されたとき、同宿していたというものです。
その後、治安・万寿年間(1021~1028年)あたりに亡くなったのでは……と考えられています。
枕草子は中関白家や宮中などの段が興味深い
さて、清少納言といえばやはり、その著作である枕草子に触れないわけにはいきません。
第一段はほぼ全ての日本人が暗記させられた文章のひとつでしょう。
また、第一四六段「うつくしきもの」や、第二八四段「雪の高う降りたるを」(香炉峰の雪)など、他にも有名な段がいくつかありますね。
歴史上からすると、「枕草子」は清少納言の好みを書いたいわゆる「ものの段」よりは、中関白家や宮中の様子などを書いた日記的な段に注目したほうが良い気がします。
例えば、
・第二〇段では清涼殿の春の一コマ
・第七三段には細殿という清少納言たちの日常生活の場
・第一〇〇段には定子の妹・原子が尋ねてきたときのこと
などが実に鮮やかに描かれています。
そのとき誰がどんな着物を着ていたか、どんな会話がされていたのか、そのままわかる本は実に貴重です。
しかし、特に嫌いなものを並べあげている段などは、いっそ見苦しいまでに悪口の羅列で、読んでいて気分が悪くなる人も少なくないでしょう。
古典の専門家の方は「清少納言は明るくて面白くてスバラシイ」という意見が大多数なので、そういう段も褒めていますが……。
第一段の「春は曙」など、いかにも文学的才能があふれている美しい表現をできる人が、どうしてこうも口汚く他人や物事を罵るような文章を残したのかが不思議です。
まあ、「枕草子は元々人に見せるつもりで書いたものではない」と清少納言自身があとがきにあたる部分に書いているのですが。
※続きは【次のページへ】をclick!