藤原隆家

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飛鳥・奈良・平安 光る君へ

なぜ『光る君へ』の藤原隆家はああもふてぶてしいのか? 道隆の次男は当代一の戦闘貴族

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伊周・隆家か? 叔父・道長か?

藤原道兼の亡き後、内覧・右大臣である藤原道長の時代がやってきました。

とはいえ、権力が完全に移譲されるかというと、そう単純なものでもありません。

道長は康保3年(966年)生まれであり、天延2年(974年)生まれの藤原伊周と8才だけの年齢差しかありません。藤原隆家とは13才差ですね。

道長は「さがな者」(乱暴者)である甥の隆家が苦手だったようです。

なんせ隆家の暴力沙汰は、器物損壊程度では済まされないものでした。

隆家と道長の従者同士がしばしば乱闘になるわ。

隆家の従者が道長の随身を殺すわ……なかなか物騒な事件を起こしているのです。

正面からまともにぶつかり合っていては、損しかない。

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まさに隆家は、道長にとって厄介者だったのですが、そこでとある事件が起きてしまいます。

 

長徳の変:事件の相手は花山法皇

それは長徳2年(996年)のこと。

当時の藤原伊周には気掛かりなことがありました。

彼は亡き太政大臣・藤原為光の娘・三の君のもとへ通っていたのですが、どうやら別の男の影があることに気づきます。

「まさか別の男とも通じているとは」

伊周がそんな風にボヤいたところ、血気盛んな弟・藤原隆家は言い出します。

「ちょっと脅しちまうか!それで大人しくなるでしょ!」

隆家は伊周を駆り立て、従者たちと共に出向き、相手の男たちに矢を放ちました。

それだけでなく従者の童(当時の童は年齢ではなく童形をしている者)2人を斬首したとされ、決定的な過ちとなってしまいます。

彼らが襲いかかった相手は、花山法皇とその一行だったのです。

しかも花山法皇は、伊周の相手・三の宮ではなく、その妹・四の宮のもとへ通っていたのであり、いわば勘違いから矢を放ったのでした。

花山法皇は出家の身です。

しかし、まだまだ若いですし、即位式でも女官に手を出していたという性に奔放な血はおさまりません。

そんな彼にとって、落ちぶれた姫はうってつけの相手だったのでしょう。

当時の貴族社会は、庇護者がいないと男子は出世が頭打ちになり、女子はまともな婿取りもできない状態になります。

太政大臣の姫たちといえども、そうした苦境にあり、かくして貴公子たちがバッティング誤認する大事件となったのです。

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出家の身である花山法皇は、事件後、その隠蔽をはかりました。

しかし、道長が見逃すわけもありません。

結果、一条天皇の耳にも入るところとなり、問罪されると、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権帥に左遷となり、都を追われることとなりました。

兄弟の事件は、家族をも巻き込みました。

藤原定子は一条天皇に赦しを乞うものの許されず、髪を切り、出家するのです。

兄弟の母である高階貴子は車にしがみつき、ついて行きたいと願うも許されず、我が子が都に戻る日を見ぬままやがて亡くなりました。

隆家は病気を理由に、出雲ではなく但馬にとどまりました。

こうした政変の背後には、道長を寵愛する東三条院(藤原詮子)の意もあるとされてきました。

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