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【牛車】
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牛車の乗り方
牛車の乗り方についても見ておきましょう。
基本的には後ろから乗って前から降りるものであり、乗り降りには踏み台が用いられました。
高貴な女性の場合は、屋敷のすぐ横に牛車を寄せ、出発時も到着時も地面を踏まずに乗り降りすることが好ましいとされていたようです。
『枕草子』や『紫式部日記』などでは、それができずに一度牛車を降りなければならないことに対し、少々不満そうな様子が書かれています。
これは何も横着しているわけではなく、
地面に降りる
↓
どこから他人の目が向けられるかわからない
↓
男性に顔を見られてしまう可能性がある
↓
はしたない
といった理由かと思われます。
特に『紫式部日記』には、そのシーンで月が明るいとも書かれていますので、余計に恥ずかしかったでしょう。
また、牛車は4人まで乗ることができ、家族や友人・恋人、仕事仲間と同乗する場合もありました。
現代のタクシーと同じように席次があり、以下の番号順で目上の人が乗ることになっていました。
<牛車の前側>
②①
③④
<牛車の後ろ側>
物語などによると、ぎゅうぎゅう詰めにすれば6人まではなんとか乗れたようです。
当時の人は今より小柄でしたが、衣装がかさばるので、すし詰めっぷりはあまり変わらなかったかもしれませんね。
牛飼童
牛車は文字通り牛を動力とするので、牛を飼いならしてうまく牛車を動かす「牛飼童(うしかいわらわ)」という役目の人がいました。
牛の外見や力の強さなども評価されやすかったので、上手に使いこなす牛飼童は重宝されたことでしょう。
平安時代では主人が下男の宿舎などを用意してやったり、親子代々召し抱えることもあったため、生活上のメリットも大きかったはず。
いつの時代もただのゴマすりではなく、きちんと仕事をして認められることは大事ですね。
この「童」は文字通りの少年ということもあったと思われますが、こうした身分の低い人々は、身体的には大人になっていても元服せず、社会的に子供のままとして扱われました。
そのため絵画などでは、烏帽子を被らない姿で描かれています。
また、特に身分の高い貴族は威厳を保つため、牛車の左右に従者を付き従わせました。
このため牛飼童や従者は牛車の周りを徒歩でついていかなければならず、これだけでも重労働。
牛飼童の他に灯り持ちや靴持ちなど、それぞれの役目の人がおり、ちょっとした行列のようにも見えたようです。
一方で、牛の扱いに慣れていることを活かして運送業などの副業に励む牛飼童もいました。
別の家に仕えている牛飼童同士が飲み会をすることもあり、同業者でのつながりや付き合いもあったようです。
輿(こし)
輿(こし)についても見ておきましょう。
平安時代というか、貴族社会特有の乗り物であり、主に皇族の人々が乗るものでした。
現代では、葵祭の斎王代(さいおうだい)が乗っているため、ニュースなどにも映っていたりしますね。
当時の京都市民にとって最大の娯楽が行列見物です。
天皇が外出する際に輿を用いると、位置によっては見物客が帝の顔を拝することもできたため、より人々が押し寄せたのだと思われます。
『源氏物語』でも、輿に乗った帝を臣下が拝するシーンがあります。
「行幸」の帖で、玉鬘が冷泉帝の顔を遠目に見て、宮仕えに前向きな気持ちを持つ……というものです。
公にはされていないものの、作中の冷泉帝は光源氏の息子なので、見惚れてしまうのもむべなるかなというところですね。
牛車同様、輿にも複数の種類がありました。
天皇が儀式の際に乗るのは「鳳輦(ほうれん)」という輿であり、屋根に鳳凰が飾られていました。
略式の輿は「葱華輦(そうかれん)」といい、天皇以外には皇后・中宮なども用いました。
他に上皇や摂関などが用いる「四方輿(しほうごし)」というものもあります。
人が担ぐ分、牛車よりも輿のほうが大変に思えますが、便利な場合もあったようです。
例えば、災害などの緊急時の場合には、簡素な板輿で皇族が避難することもありました。
周りが騒がしい中だと牛も落ち着かないでしょうし、火が迫っていて牛飼童を呼びに行く余裕もない、といったときには、その場ですぐに担げる輿のメリットが大きくなりますね。
似たような理由で、貴人が地方へ出かける際、道が険しすぎて牛車を引かせられない場合は、輿が用いられました。
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