牛車

駒競行幸絵巻東宮の牛車/wikipediaより引用

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牛車は平安貴族の乗り物でありステータスであり 物語にも欠かせない存在だった

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輦車(れんしゃ)

他に、女御となる女性が入内する際などに使われる「輦車(れんしゃ)」というものもありました。

これは牛ではなく人が引く車。

それだけでもなんとなく特別扱いだというのがわかりますね。

ちなみに天皇は牛車には乗らず「輿(こし)」を使うので、詳細は後述します。

 


牛車で身分を偽って……

「牛車の種類で使える身分が決まっている」

ということは、全く関係ないクラスの牛車に乗っていれば、自身の身分や素性を偽ることもできます。

平安時代の例でいえば、和泉式部に惚れ込んでしまった敦道親王が有名でしょうか。

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)

こっそり通うために粗末な車を使用したり、女車(おんなぐるま)と呼ばれる外見に仕立てたことが『和泉式部日記』に書かれています。

「女車」とは車の種類ではなく、女性が牛車に乗る際のルールを適用した状態のことを指します。

牛車は乗り降りの便宜を図るために、四角い筒のような本体の前後にすだれをかけてありました。

女性が乗っている場合、すだれの内側にさらに布をかけて、中が見えないようにしていたのです。

さらにすだれの下から重ねた衣を覗かせて、衣装センスを誇示したりもしました。これを「出衣(いだしぎぬ)」といいます。

出衣は実際に着ているものではなく、出衣のために飾りとして用意することが多かったので、敦道親王はこれを利用して、女性が乗っているように見せかけたわけです。

愛の力のなせる技でしょうかね。

車種についても、本来の敦道親王であれば檳榔毛の車を用いるのがふさわしいでしょう。

しかし、最もスタンダードで出回っている数も多い(誰が乗っているかわかりにくい)網代車を使ったのではないかと考えられています。

源氏物語』の光源氏も、女性の元へ通う際にたびたび網代車を用いていました。

また「葵」の帖で六条御息所が身分を隠して行列見物をしようと、古びた網代車を使ったために葵の上の従者に侮られ、かの有名な「車争い」のシーンも生まれています。

財政的に豊かな貴族の場合、色々な牛車を家に用意しておき、場合によって使い分けるということも珍しくなかった。

ゆえに、フィクション・ノンフィクション問わず、色々なドラマが生まれたんですね。

 


牛車の乗り方

牛車の乗り方についても見ておきましょう。

基本的には後ろから乗って前から降りるものであり、乗り降りには踏み台が用いられました。

高貴な女性の場合は、屋敷のすぐ横に牛車を寄せ、出発時も到着時も地面を踏まずに乗り降りすることが好ましいとされていたようです。

『枕草子』や『紫式部日記』などでは、それができずに一度牛車を降りなければならないことに対し、少々不満そうな様子が書かれています。

これは何も横着しているわけではなく、

地面に降りる

どこから他人の目が向けられるかわからない

男性に顔を見られてしまう可能性がある

はしたない

といった理由かと思われます。

特に『紫式部日記』には、そのシーンで月が明るいとも書かれていますので、余計に恥ずかしかったでしょう。

また、牛車は4人まで乗ることができ、家族や友人・恋人、仕事仲間と同乗する場合もありました。

現代のタクシーと同じように席次があり、以下の番号順で目上の人が乗ることになっていました。

<牛車の前側>
②①
③④
<牛車の後ろ側>

物語などによると、ぎゅうぎゅう詰めにすれば6人まではなんとか乗れたようです。

当時の人は今より小柄でしたが、衣装がかさばるので、すし詰めっぷりはあまり変わらなかったかもしれませんね。

 

牛飼童

牛車は文字通り牛を動力とするので、牛を飼いならしてうまく牛車を動かす「牛飼童(うしかいわらわ)」という役目の人がいました。

牛の外見や力の強さなども評価されやすかったので、上手に使いこなす牛飼童は重宝されたことでしょう。

平安時代では主人が下男の宿舎などを用意してやったり、親子代々召し抱えることもあったため、生活上のメリットも大きかったはず。

いつの時代もただのゴマすりではなく、きちんと仕事をして認められることは大事ですね。

この「童」は文字通りの少年ということもあったと思われますが、こうした身分の低い人々は、身体的には大人になっていても元服せず、社会的に子供のままとして扱われました。

そのため絵画などでは、烏帽子を被らない姿で描かれています。

また、特に身分の高い貴族は威厳を保つため、牛車の左右に従者を付き従わせました。

このため牛飼童や従者は牛車の周りを徒歩でついていかなければならず、これだけでも重労働。

牛飼童の他に灯り持ちや靴持ちなど、それぞれの役目の人がおり、ちょっとした行列のようにも見えたようです。

一方で、牛の扱いに慣れていることを活かして運送業などの副業に励む牛飼童もいました。

別の家に仕えている牛飼童同士が飲み会をすることもあり、同業者でのつながりや付き合いもあったようです。

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