後一条天皇

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用

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なぜ後一条天皇は彰子と一条天皇の子なのに影が薄い?一体どんな人物だった?

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三条天皇が即位

不幸といえば、寛弘八年(1011年)に父帝と死別したことでしょうか。

一条天皇はこのときまだ32歳でしたが、生来の病弱さのためか突如重体となり、間もなく崩御してしまったのです。

一条天皇
史実の一条天皇はどんな人物だった?定子や道長とはどんな関係を築いていたのか

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新たな天皇は、いとこにあたる三条天皇

新帝の即位にともなって、数え四歳の敦成親王が皇太子に立てられました。

三条天皇には既に敦明親王(994年に生誕)という第一皇子がいて、道長との軋轢から後に皇太子の座を巡ってドタバタがありますが、その詳細は後述するとして。

本稿の主役・後一条天皇にはこの頃、生母である彰子との逸話があります。

まだ人の死を理解できない敦成親王が、あるとき撫子の花を手に取ると、それを見た彰子が次の歌を詠んだというものです。

見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花

【意訳】撫子の花を手に取った我が子よ、まだお父上が亡くなったことをわかっていないのですね。あどけなくて涙が出てしまいます

撫子の花は「撫で子」とかけられ、子供を可愛がる表現や「可愛い子供」にかけてよく用いられました。

ですので、まだまだ父帝に可愛がられる時間があったはずの我が子を見て、彰子のほうが物悲しくなってしまったのでしょう。

この逸話には登場しませんが、彰子には一条天皇との間にもう一人、敦良親王(あつながしんのう)という皇子がいましたので、幼い息子二人を抱える母としての不安もあったでしょう。

 

9歳で即位 皇太子は敦明親王となるが……

まだ幼い敦成親王(あつひらしんのう)の知らないところでは政争が繰り広げられていました。

一日も早く自らの孫である敦成親王を天皇にしたい道長と、それになんとか対抗しようとする三条天皇との間で、深い亀裂が生まれていたのです。

勝負は呆気なく決まります。

長和三年(1014年)に三条天皇が眼病にかかってしまい、道長の圧迫が強まったため、ついに三条天皇は譲位へ追い込まれました。

しかし三条天皇は、譲位に際してこんな条件を出します。

「自分の第一皇子である敦明親王を皇太子にすること」

結果、長和五年(1016年)、敦成親王はわずか9歳で即位し、後一条天皇となったのです。

摂政はもちろん道長。

そして翌寛仁元年(1017年)8月には、せっかく皇太子となった敦明親王も自らその位を降りました。

敦明親王は妻の実家(藤原顕光)が頼りにならない上、他に道長に対抗できる者もおらず、皇太子の地位を守り続けることは難しいと判断したようです。

また、敦明親王は後一条天皇よりも14歳上のため、譲位される前に自信が薨去してしまう可能性もありました。

ともかく皇太子を降りた敦明親王は、今度は道長から深く感謝されることになり、便宜を計ってもらうことに。

その後も色々とありますが、詳細は以下、敦明親王の記事をご覧ください。

敦明親王
敦明親王~意外と好戦的な三条天皇の第一皇子~道長の圧迫で皇太子の座を譲る

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後一条天皇の即位に伴い、新たな皇太子には、後一条天皇の同母弟(彰子の第二子)である敦良親王(後朱雀天皇)が立てられました。

道長は、これ以上ないぐらいのホクホク顔です。

自らは嫡子である藤原頼通へ藤氏長者の座を譲り、これに応じて後一条天皇は頼通を摂政に任じ、翌年には関白にしました。

そして注目は、やはり後一条天皇の妻でありましょう。

いったい誰が入内したのか?というと……。

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