藤原顕光

藤原顕光/wikipediaより引用

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使えない右大臣・藤原顕光は史実でも無能だった?悪霊左府と呼ばれた無念の生涯

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伊勢で平維衡と平致頼が衝突

娘の出産騒動を経て、藤原顕光は右大臣という高官でありながら人望も薄くなってしまい、いよいよ厳しい状況へ。

彼が主導する会議には出席者が激減するなど、仕事もやりにくくなっていきます。

具体的には、長徳四年(998年)に伊勢で平維衡と平致頼が衝突を起こしたときのことです。

平維衡と平致頼は官位を持った武士でしたが、私戦を咎められることになりました。

その罪を問う会議を顕光が担当すると、たった三人しか公卿が参加しなかったのです。

正しい裁定などもはやできない状況ですので、顕光もそのように考えて発言しましたが、参加者は増えず。

この事件後のことが、ドラマでも取り上げられましたね。伊勢守に推挙された平維衡について、道長が「暴力に訴える者を国司にするなど危険。今後も次々にまかり通ってしまう」として却下しようとしたシーンです。

かくして、顕光とは対照的に、存在感を強めていった道長。

長保元年(999年)に長女・彰子を入内させると、翌年、ゴリ押しで中宮に。

まだ幼い彰子はすぐに懐妊する可能性が低く、顕光と元子が巻き返すチャンスもありましたが、現実は厳しいものでした。

彰子は、寛弘五年(1008年)に敦成親王(後の後一条天皇)、翌年に敦良親王(後の後朱雀天皇)と立て続けに皇子を生むのです。

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これで道長と顕光の勝敗もほぼ確定しました。

紫式部日記』では、敦成親王誕生の五十日祝いの席で、「酔った顕光が戯れて几帳の綴じ目を引きちぎったり、女房の扇を取り上げた(≒顔を見た)」と書かれています。

権力争いに敗れてだらしない人だな……と言ってしまえばそれまでですが、自身や娘の不運ぶりを考えると、やりきれない気持ちもあったのでしょう。

 


娘の元子が源頼定と恋仲に

寛弘八年(1011年)一条天皇が重体となり、三条天皇に譲位。

そして敦成親王が皇太子に立てられました。

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顕光は道長についたものの、三条天皇は道長の外孫ではないため、道長と三条天皇の仲は不穏なものとなってしまいます。

三条天皇が頼りにしていたのは『小右記』の著者である藤原実資

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つまり顕光は、道長からも三条天皇からもアテにされず、宙ぶらりんのような状態になってしまうだけでなく、この頃、娘の元子が源頼定という公家と恋仲になってしまいました。

源頼定は村上天皇の孫でしたが、藤原伊周らと親しかったため、彼らが【長徳の変】で失脚した際に連座して罰を受けています。

変の当事者ではなかったこともあり、頼定はすぐに許されたものの、あまり先が明るいとはいえません。

また、頼定は三条天皇がまだ皇太子だった頃、尚侍の藤原綏子(道長の異母妹)と密通して解任させるという事件を起こしており、三条天皇の在位中は昇殿すら許されておらず、当然出世は不可能な状態でした。

そうした諸々の理由で、顕光は大激怒。

元子の髪を無理やり切って尼にさせようとしたものの、頼定との仲はむしろ燃え上がってしまったようで……。

手に余った顕光は元子を家から追い出し、元子は頼定の家へ身を寄せたそうです。

その後、彼らの間には二人の娘が生まれました。

髪を落とされた元子を見捨てなかったのは頼定の良いところだったかもしれませんが、かつては従二位を与えられた女御である元子が妾のような扱いになってしまったわけですから、顕光にとっては屈辱だったことでしょう。

ある程度時間が経ってからは、頼定の正室よりも身分が高かった元子のほうが正室扱いをされるようになっていたらしいのですけれども。

 


もう一人の娘・延子は敦明親王の妻となり

藤原顕光にはもう一人の娘・延子もいました。

彼女は三条天皇の第一皇子である敦明親王の妻となり、

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男子にも恵まれますが、道長との血縁が遠いことから先々の状況は期待薄。

顕光も当時既に70歳を超えており、いつお迎えがきてもおかしくありません。

息子の重家は、はるか昔の長保三年(1001年)に出家してしまっており、顕光の系統はまさに“後がない”状況に陥ってしまいます。

もちろん、顕光も現状を理解しており、自宅の堀河第を延子に相続させる手筈を整えていました。

しかし、です。延子が寛仁三年(1019年)に亡くなってしまい、元子が彰子に訴えて堀河第の継承権を主張したため、顕光も折れざるを得なくなります。

時系列が前後しますが、三条天皇は長和五年(1016年)、道長の圧迫を受けて譲位をしています。

この譲位の儀式の際、顕光は自ら主催を願い出ました。

道長は、老体の上にこれまでも色々としくじっている顕光に任せるのは気が進まなかったようですが、押し切られています。

顕光はカンペを用意して当日に臨んだものの、やはりミスを多発。

道長や実資からはもちろん、他の公卿たちからも失笑されたとか。

ただし実資は、自分の家である小野宮流のやり方しか認めず、相手が顕光以外の公家だった場合でも小野宮流に則っていなければ非難をしているため、

「顕光だけが悪かったわけではないのでは?」

という見方もあります。

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