藤原顕光

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

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使えない右大臣・藤原顕光は史実でも無能だった?悪霊左府と呼ばれた無念の生涯

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「一夜にして白髪になった」

それでも藤原顕光が巻き返せる可能性は、わずかながらありました。

敦明親王です。

彼が即位すれば……と思いきや、その敦明親王が、三条上皇の崩御後に自ら皇太子の地位を降りてしまいます。

道長はお礼として、敦明親王に「小一条院」の称号を与え、生活が立ち行くようにし、さらに末娘の寛子を妻として差し出しました。

こうなると、長年連れ添ってきた延子と子供たちは見捨てられたような形になってしまいます。

延子は思い悩んで病気となり、亡くなってしまいました。

このとき顕光は「一夜にして白髪になった」とまでいわれています。

さすがにそれは誇張表現でしょうけれども、唯一望みをかけていた娘にまで先立たれてしまっては、余人に想像もつかないほどの深い悲しみが襲ったとしてもおかしくはありません。

陰陽師に依頼して道長を呪詛させたとも言われてますが、本人は、道長が左大臣を辞職すると追いかける形で左大臣の椅子に座っています。

左大臣といえば、実質的な政治のトップ。

呪詛は当時重い犯罪でしたが、これだけの目に遭った上に娘を死に追いやられたも同然となると、政治の主導者であっても手を染めたくなってしまったのでしょうか……。

 

「悪霊左府」と呼ばれて

寛仁二年(1018年)、道長の娘・威子の立后の際に名前を間違え、やはり道長から罵倒されています。

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顕光はこのとき70代半ば。

認知能力などに何か支障が出ていたのかもしれませんが、当時はそういった症状についての理解や認識も薄かったでしょう。

そして治安元年(1021年)の年始では、従一位にまで上り詰めるのですが、それから半年もしない5月25日に亡くなりました。

享年78。

その後、不思議なことに道長の娘たちが次々に亡くなりました。

万寿二年(1025年)に敦明親王妃の寛子と皇太子敦良親王妃・嬉子が、そして万寿四年(1027年)には三条天皇中宮だった妍子と、訃報が続いたのです。

短期間に三人の娘に先立たれ、さすがの道長も相当堪えたようで……。

この頃になると道長は胸の病や糖尿病らしき症状が進行していましたので、余計に辛かったのではないでしょうか。

特に末娘の嬉子が亡くなった際は、陰陽師に命じて死者蘇生の儀式までさせたそうですから、悲しみようがわかるというものです。

道長の娘たちの相次ぐ死は、「顕光と延子の祟りだ」と考えられ、顕光には「悪霊左府」という不名誉なあだ名までつけられてしまいました。

まぁ、これまでの経緯を考えたら、祟りたくもなろうというものですよね。

 

『宇治拾遺物語』にも顕光の呪い話

悪霊説は長らく信じられたようで、『宇治拾遺物語』にも「顕光が道長を呪った」という話があります。

それはざっと以下の通り。

あるとき道長が無量寿院に参詣しようとすると、連れていた犬がやたらと引き止めるので、不思議に思って安倍晴明に占わせました。

すると寺院の敷地内に道長を呪うための呪物が埋まっており、その犯人は道摩法師という陰陽師であり、依頼主は顕光だった。

無量寿院ができたのは晴明が亡くなった後なので、この話は時系列的に無理があるのですが……。

前述の呪詛をかけていたという噂の件が伝えられていたために、後世の人々も

「顕光は道長に並々ならぬ恨みがあるはずだ」

と考え、このような話ができたのでしょう。

道長本人が亡くなる間際もなかなか壮絶な様子でしたので、余計に祟り説が根強くなってしまったのかもしれません。

ちなみに、顕光には「火事で家を失った家来のために住まいを与えた」という、優しい面もありました。

不運が重ならなければ、あるいはもう少し政治的手腕があれば、悪霊ではなく人格者として語り継がれていたのかもしれません。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
倉本一宏『藤原道長の権力と欲望 「御堂関白記」を読む』(→amazon
繁田信一『安倍晴明 陰陽師たちの平安時代』(→amazon

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