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【三条天皇】
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道長との関係
道長としても、いたずらに居貞親王と敵対したいワケでもありません。
むしろ良好な関係を築きたい理由がありました。
この時点では、皇統が一条天皇で続くか、居貞親王に移るか不明ですので、どちらに転んでも良いように振る舞いたかったのが本音でしょう。
居貞親王が道長と良好な関係だったことを示す逸話として、「梅の枝の話」が伝えられています。
それは以下の通り。
長保二年(1000年)2月3日、居貞親王は東宮で弓と蹴鞠の遊びを催し、そこに弟の親王たちや道長などの公卿を集めました。
遊びが終わって道長が帰ろうとしているところへ、居貞親王が梅の花が咲いているのを見つけ、
「このような見事な梅をそのままほうっておくわけには行くまい」
といい、道長が手ずから一枝折って捧げます。
すると、居貞親王が次のように上の句を詠み
「君折れば 匂ひ勝れり 梅の花」
道長が下の句を繋げました。
「思ふ心の 在ればなるべし」
通して詠むと、こうなります。
君折れば 匂ひ勝れり 梅の花 思ふ心の 在ればなるべし
【意訳】この梅の花は他の枝よりも美しく咲いている。君が思いを込めて折ってくれたからだろう
手折った人の心根が梅の花をより美しく見せるのだ……という歌で、状況を知らなければなんだか恋歌にも見えてしまいそうですね。
和歌が当時の貴族にとって素養であるとはいえ、こういった即妙さは普段の関係が良好でなければ成り立たないもの。
少なくともこの時点では、居貞親王と道長双方に「良い関係でいよう」という意思があったのでしょう。
長保四年(1002年)8月には、原子が突如として重い病気により亡くなり、道長にとっては居貞親王に近づくハードルが一つ減ったともいえます。
道長としては、この時点で「居貞親王にも娘を入内させよう」と考えていたでしょうが、彰子が一条天皇に入内したばかりでもあり、しばらくは先送りされました。
また「原子の死は娍子の呪詛によるものだ」という噂も立っていたようです。
しかし道長が直接関係しておらず、居貞親王・娍子・原子それぞれが有力な後ろ盾を持っていなかったためか、そのうち噂は消えてゆきました。
おそらく、居貞親王が娍子を寵愛していたことに対し、原子周辺もしくは中関白家の関係者が言い出したのでしょう。
同時期には、藤原行成が愛妻を亡くしており、居貞親王は弔問の使者を遣わしています。
政治的な理由もあったでしょうが、似た境遇になったぶん哀れみも増したのではないでしょうか。
そうした気遣いに溢れた居貞親王ですが、周辺でのトラブルに巻き込まれやすい人でもあります。
居貞親王にとって最愛の妻・娍子には妹がいました。
彼女は居貞親王の弟・敦道親王の妻(北の方)となっていたのですが、敦道親王が長保五年(1003年)に和泉式部と深い仲になってしまった上、自邸に彼女を迎えてしまうのです。
これにより北の方は立場がなくなり、寛弘元年(1004年)に娍子のもとへ。
この件について居貞親王夫妻がどう思ったかはわかりませんが、「私の後ろ盾が弱いばかりに」と悔しい思いをした可能性は否定できません。
前述した原子の死去により、居貞親王の后妃は娍子のみという期間がしばらく続いていたため、夫婦でこの件を話し合うこともあったでしょう。
和泉式部はこの後、道長に召し出されて彰子に仕えることになるので、何かの折に名前を聞いていたとしたら、複雑な気持ちになったかもしれません。
一条天皇とはどんな関係だったのか?
さて、肝心要の一条天皇と居貞親王は、どんな関係だったのでしょうか。
お互いに気遣っていたと思われる逸話があります。
寛弘三年(1006年)の夏に、道長の屋敷で催される競馬(くらべうま)見物に、一条天皇が行幸することになりました。
一条天皇は
「東宮も見物にいらっしゃるだろうか」
と道長を通して誘いかけ、居貞親王が上機嫌で
「ぜひ」
と返し、席は別ながらも共に見物したことがあります。
競馬が終わった後は一条天皇が居貞親王を御前に呼び、酒食を賜ったとか。
年長者の居貞親王のほうが目下といういびつさはあったものの、血の繋がったいとこ同士でもありますので、親近感があったのでしょう。
一条天皇がなかなか皇子に恵まれないこと、居貞親王は後見が脆弱なことに悩んでいたでしょうから、お互いの境遇を思いやるような会話もあったのかもしれません。
このとき彰子が居貞親王を気遣ったという話もありますので、『光る君へ』でも描かれるかもしれませんね。
道長としても引き続き居貞親王に気を使っており、異母兄の花山法皇が崩御した後には、毎月、居貞親王のもとを訪れていた時期があります。
そしてテコ入れのためか、寛弘七年(1010年)に道長は次女の妍子を、ついに居貞親王に入内させました。
妍子との年齢差は18、かつ居貞親王にとっては長子の敦明親王と同い年です。
道長のゴリ押しエピソードは多々ありますが、この件が一番キツイかもしれません。
『栄花物語』ではあまりの年齢差のため、居貞親王が妍子にかなり気を使って接していたと表現されています。
居貞親王の性格からすると、当たらずといえども遠からずといった感じがしますね。一条天皇も彰子の入内直後は似たような応対だったようですし。
道長も頻繁に居貞親王のもとを訪れるようになり、居貞親王としても
「良い関係を維持するためには、妍子との間に男子を得なければ」
と思ったようで、名実伴った夫婦関係を築いていきます。
36歳で即位して三条天皇に
明けて寛弘八年(1011年)、一条天皇が重病に倒れ、居貞親王が譲位を受けて三条天皇となります。
このとき既に36歳。
新たな皇太子には、一条天皇と道長の娘・彰子の間に生まれた敦成親王が立てられました。
こうなると道長としては、できるだけ早く三条天皇に退位してもらい、敦成親王を即位させて外戚の地位を確立したいわけです。
そして妍子にもできれば皇子を産んでもらい、敦成親王に万が一のことがあった際にも備えたい。
三条天皇もそれはわかっており、即位の翌年に女御の妍子を中宮にし、立場を重んじることを表明します。
しかしその一方で、長年連れ添ってきた娍子も皇后に立てました。
「道長に協力はするが、全て言いなりになるわけではないぞ」と示したかったのでしょう。
しかし結果としては、これが道長との溝を深めていくことになります。
さらに、健康問題が政治にも影響していきます。
三条天皇は東宮時代からたびたび病みつくことがあったのですが、即位後はさらに目や耳・鼻を病むようになったため、道長はこれをきっかけとして譲位への圧力を強めていくのです。
現実問題として、見たり聞いたりできなければ日常の政務や儀式にも支障がありすぎますし、妥当な意見でもあります。
病の理由については、現代でもよくわかっていません。
白内障や緑内障のように目そのものを病んだのか、あるいは糖尿病や動脈硬化などのように、別の病気が進行した結果なのか。
耳にも影響していること、ときに「水をかぶったら症状が良くなった」という記述が見られることなどからすると、いくつかの病気やストレス性の症状を併発していた可能性もありますね。
しかし三条天皇は、しばらく譲位を先送りにします。
あっちこっちの寺院に祈祷をさせたり、怪しげな医者や薬を試してみたり、自ら比叡山などに行幸したり、当時考えられていたありとあらゆる方法で病気に抗おうとしたのです。
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