三条天皇

三条天皇/wikipediaより引用

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三条天皇(居貞親王)が道長と一条天皇の陰で過ごした41年の生涯を振り返る

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トラブル続きの子供たち

三条天皇は、道長の懐柔策として皇女・禎子内親王を道長の息子・藤原頼通に降嫁させることを図りました。

禎子内親王は妍子の娘ですので、頼通にとっては姪との結婚ということにもなります。

道長としてはこの話に乗り気だったようですが、頼通は長年連れ添った隆姫女王が弱い立場になるのを嫌がり、首を縦に振りません。

さらに隆姫女王の父・具平親王が頼通の枕元で祟ったことで体調を崩したとされたため、この話は沙汰止みになっています。

三条天皇としても「長年連れ添った妻を思いやって」ということであれば、無理強いはできなかったでしょうね。

そんなこんなで苦悩する三条天皇でしたが、さらに子供たちの周りでも問題が起き始めます。

長子の敦明親王はたびたび暴力事件を起こすわ、娘の当子内親王は長和三年(1014年)から長和五年(1016年)まで斎宮を務めた後、藤原道雅(伊周の子)と密通するわ。

さすがに三条天皇も激怒。

後者については斎宮の任期が終わった後なので問題視しなくてもよさそうなものですが、道雅が伊周の長子であることから先々の望みが薄く、また上皇の許可も得ていないことで怒ったのでしょう。

長徳の変】の悪影響がこんなところにまで及んだわけですね。

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ちなみに当子内親王は斎宮時代に

「『内親王を斎宮にするとは志が深い。御代は18年続くだろう』という託宣がありました」

「伊勢には怪異がないので、父上の御代は長く続くでしょう」

などと書き送ってきたことがあり、元は仲の良い父娘だったのではないかと思われます。

情が濃いぶん怒りも強くなったのか……。

一方で、相変わらず三条天皇が優しい方だったことを伝えるエピソードもあります。

長和四年(1015年)5月、後宮のとある女官が物の怪に取り憑かれ、三条天皇の側仕えの子供に襲いかかるという事件がありました。

かなり強い力で殴ったり蹴ったりしたらしく、三条天皇はとっさにその子供を抱えてかばったのだそうです。

平安時代のような厳しい身分社会で、かついくらでも替えがきいたであろう子供を、至尊の地位にある方が身を挺してかばったのですから、かばわれた側は一層忠誠心を厚くしたことでしょう。

この件は「三条天皇に取り付いていた悪霊のしわざ」として処理され、女官は罰されずに済んでいます。

 


百人一首に選ばれた三条天皇の歌

こうして公私ともにトラブルが襲いかかった上に薬や祈祷の効果はなく、さらに”内裏(天皇の住まい)が炎上する”という不吉な事故が勃発。

三条天皇は譲位を受け入れざるを得なくなります。

道長に政務を主導させ、位に止まろう――そんな案も出しますが道長に拒否されてしまいました。

さらに道長は、新たな皇太子に外孫の敦成親王の擁立を図ると、三条天皇は最後の意地として

「長子の敦明親王を次の皇太子に立てること」

と言いつけ、ここでは道長が折れています。

そして譲位が決まった後、在位約五年という短い間の奮闘を振り返りながら、三条天皇は歌を詠みました。

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

【意訳】決して長生きしたいとは思わないが、もしそうなったとしたら、今宵の名月はいかに恋しく感じられる事だろう

百人一首にも採られている有名な歌ですので、ご存知の方も多いでしょうか。

かるたと凝視していると、なかなか歌の背景にまで意識が向きませんが、実はこんな孤独な闘いの末に詠んだものだったのです。

三条天皇の御製には他にも

秋にまた 逢はむ逢はじも 知らぬ身は 今宵ばかりの 月をだに見む

【意訳】私はまた秋に巡り会えるかどうかもわからないから、せめて今宵の月を目に焼き付けておこう

(詞花集97)

というものがあり、月に強い思い入れがあったこともうかがえます。

目を患っただけに、煌々と光る月がより恋しくなったのでしょうか。

三条天皇は譲位の後も寺院に行幸して回復祈願をしていましたが、それも虚しく、寛仁元年(1017年)4月に重い病を得て出家し、そのまま回復せず同年5月に41歳で亡くなりました。

 


道長の死後、孫の後三条天皇が頑張る

藤原道長は、三条天皇が亡くなった年に後一条天皇へも娘を嫁がせ、一つの家から三人の皇后を立てるというウルトラC(のゴリ押し)を達成。

そしてかの有名な歌を詠んだとされます。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

このとき道長は既に52歳。

「そろそろこの世からご退場いただいても構いませんのに」と思っていた人も多かったでしょうが、さらに10年ほど君臨し続けました。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

晩年には(自分と)貴族達の極楽往生を願い、大規模な寺院の建築に力を注ぐと、周囲の貴族達はこぞって工事に協力したそうで。

朝廷に納めるはずのものを先に道長へ納めるほどだったといいますから、呆れてしまいますね……。

ここまでだと道長の圧勝に見えますが、実はそうとも言い切れないところがあります。

道長が亡くなってから6年後、禎子内親王の子で三条天皇の孫にあたる後三条天皇が即位したのです。

後三条天皇は母方から冷泉系、父方から円融系の血を引いており、穏便に皇統が統一されることにもなりました。

後三条天皇も約五年という短い間の在位ながら、その間に藤原氏の特権を没収するなどの改革を断行。

これにより財産の偏りが減り、藤原氏以外の貴族や庶民の生活がマシになったそうです。

もしかすると、お爺様の無念を晴らすという意味もあったのでしょうか。

代を越えてでも最終的に勝利するというのが、なんとも皇族や公家らしい結果といえるかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon
繁田 信一『殴り合う貴族たち』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典

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