藤原伊周

藤原伊周/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

藤原伊周は長徳の変で流罪となり もう二度と出世できない?史実ではどんな展開?

眉目秀麗で頭も良く、血筋も最高なのに、精神面に幼さがあるため権力争いに破れて落ちぶれてしまう。

そんな残念な貴公子が『光る君へ』に登場しています。

皆さんご存知、三浦翔平さん演じる藤原伊周(これちか)です。

和歌も、漢詩も、笛も、弓も、貴族に必要なことは全部でき、加えて妹の藤原定子一条天皇に寵愛される――ドラマでもそんな風に描かれ、史実でもこれ以上ないポジションにいた。

しかし関白になれなかったことからメンタルの弱さを露呈し、挙句の果てには【長徳の変】という大事件を起こしてしまう。

捕縛される前に、慌てふためき右往左往する姿は、なんとも情けないものでしたが、あれはドラマだから?

いったい藤原伊周とはどんな人物だったのか……その生涯を振り返ってみましょう。

 

父は藤原道隆 母は高階貴子

藤原伊周が生まれたのは、天延二年(974年)。

父は藤原北家の藤原道隆で、『光る君へ』では井浦新さんが演じていますね。

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藤原道隆
藤原道隆(光る君へ井浦新)の死後 道長と対峙する中関白家はどんな命運を辿るのか

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さらには道隆の父(伊周にとっては祖父)・藤原兼家は東宮大夫などを務め、さらにその父(伊周の曽祖父)である藤原師輔は藤原北家九条流を興隆させた人物です。

道隆は容姿にも優れていたようで、いわゆる”貴公子”のイメージでしょう。酒癖の悪いところもあり、それが後々災いとなるのですが……。

母は高階成忠の娘・高階貴子でした。

後に女房三十六歌仙にも数えられる歌人で、円融天皇の頃には宮仕えをしており、「高内侍(こうのないし)」と呼ばれていました。

高階氏はもともと天武天皇の孫・長屋王から枝分かれした一族。

貴子の父・高階成忠は政治家というより学者で、一条天皇の東宮時代の先生を務めていました。

つまり伊周は、

・父方では出世間違いなしの家柄かつ美男子

・母方は学才に優れた一族

といった抜群の環境に生まれたと言える。

しかも貴子は道隆の嫡妻でしたから、どこからどうみても将来を約束されていました。

それが証拠に寛和元年(985年)12歳で元服すると、さっそく従五位下の位を受け、翌寛和二年(986年)には一条天皇の即位式の日に昇殿を許され、その後も毎年昇進していきました。

祖父の兼家が、同じく寛和二年に摂政・従一位・准三宮という栄華を極めていたため、その恩恵を受けたのでしょう。

もちろん、伊周の父であり兼家の子である道隆もガンガン出世しており、永延三年(989年)には内大臣という高官になっていました。

高階貴子
高階貴子~道隆の妻で定子の母はどんな女性だった?光る君へ板谷由夏

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父と妹に引っ張られて内大臣まで出世

正暦元年(990年)、父の藤原道隆が兼家の跡を継いで関白になると、同年10月には藤原伊周の同母妹・藤原定子が中宮になりました。

これによって伊周はさらに出世を果たします。

正暦二年(991年)参議、従三位権中納言

正暦三年(992年)正三位権大納言

正暦五年(994年)内大臣

急速に高い官位へ上り、伊周は21歳という若さで内大臣となるのですが、さすがにこれはやり過ぎでした。

叔父の藤原道長を追い越すばかりでなく、自分が出世するときに異母兄(庶子)の藤原道頼へ官職を譲ったり、いかにも反感を買いそうなことを繰り返していたのです。

一条天皇の母である藤原詮子(東三条院・道隆の妹)にもよく思われず、後に道長が有利になる下地が作られていきました。

そして伊周にピンチが訪れます。

長徳元年(995年)2月初め、父の藤原道隆が飲水病(糖尿病)を悪化させ、明日をも知れぬ状態となってしまうのです。

慌てた道隆は「伊周に関白の座を譲らせてほしい」と一条天皇に願い出たところ、許可がおりません。

一条天皇と藤原伊周は、単なる主従という他にも複数の面がありました。

藤原定子を通して義兄弟の関係だっただけでなく、伊周が一条天皇に漢籍を進講するなど、公私共に様々な面で関わっていたのです。

となると伊周の悪い面も頻繁に目にするわけで……。

そこで一条天皇は「道隆が先に書類を見て、その後、伊周も見るように」という命令を下しました。

おそらく父の跡をすぐに継げると思っていたであろう伊周はこれに不服そうな態度を隠しません。

母方の叔父で左少弁の高階信順も「宣旨を訂正せよ」と、文書を作成した大外記・中原致時に迫ったといいます

当然ながら、天皇の意思を勝手に書き換えることは出来ないため、致時は拒絶――と、こうした流れも一条天皇の耳に入り、ますます伊周は不興を買ってしまうのです。

しかも緊急事態の中、伊周は衣類の裾の長さなどに制限を加えるというよくわからん方向の厳しさを発揮し、公卿たちからさらに反感を買いました。

なぜ自制することが出来なかったのか……。

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