長保3年閏12月22日(1002年2月7日)は藤原詮子(せんし/あきこ)の命日です。
大河ドラマ『光る君へ』で吉田羊さんが演じ、全国にその名が知られるようになりましたね。
藤原道長の姉であり、ドラマの中では藤原兼家の子供たちの中で「最も父に似ている」と評され、後に道長が朝廷のトップに立てたのも彼女の力があったからとされます。
そこで気になるのが史実における詮子の存在でしょう。
実際に道長は姉のおかげでトップにたてたのか。
そもそも彼女はどんな女性だったのか?
藤原詮子の生涯を振り返ってみましょう。

藤原詮子/wikipediaより引用
藤原兼家と嫡妻・時姫の娘
藤原詮子は応和2年(962年)、藤原兼家を父、藤原時姫を母として生まれました。
この時代は一夫多妻制度であり、かつ父母の血統が重視される双制系です。
どの母親のもとに生まれるか?
子供にとってはそれが重要であり、彼女は道隆・超子・道兼・道長らきょうだいと同じく、兼家の嫡妻(時姫)の子でした。

藤原兼家/wikipediaより引用
時は、藤原氏による外戚政治がますます強化されていく最中です。
兼家は天皇の寵愛を得るにふさわしい教育を詮子にほどこしたことでしょうし、冷泉天皇に入内している姉の藤原超子も手本とできたはず。
歴史を振り返ると、女性の苦労には様々なものがあります。
しかし、この時代の藤原氏出身女性はかなり独特かもしれない。
天皇の寵愛を得るべく、美貌と才知を磨くことはできる。むしろそれがつとめ。
とはいえ、期待されるのは愛され、男子を産むことばかり。決して自分の思う通りにはいかない――。
生まれた時から決まったそんな運命だなんて、なかなか残酷と見るか、贅沢な悩みとするべきなのか。
繰り返しますが、こんな悩みはそうそうありません。
外戚政治は問題視されるものであり、完璧ではないながら排除の仕組みもあります。何代にもわたり外戚の輩出に成立し続けた藤原氏が特殊なのです。
藤原北家九条流の外戚政治
藤原氏にしても、最初から何もかも上手くいったわけではありません。
偶然や運命も重なって、この状況が生まれたと言える。
いわば日本史上における外戚政治最高潮の時代であり、藤原詮子から見た当時の状況を整理しておきましょう。
なかなか凄まじいことになっていて、頭が混乱するかもしれませんが……。
◆藤原詮子から見た当時の状況
【村上天皇】詮子の伯母の藤原安子が中宮/安子の父である藤原師輔は詮子の祖父
【冷泉天皇】村上天皇の第2皇子で母は藤原安子/詮子の姉である藤原超子と従姉の藤原懐子(藤原伊尹の娘)が入内する/伊尹は兼家の長兄

村上天皇/wikipediaより引用
【円融天皇】藤原詮子が入内/従姉の藤原媓子(藤原兼通の娘)が入内/兼通は兼家の兄
【花山天皇】父の藤原兼家と、兄の藤原道兼による謀略で出家し退位する
【一条天皇】藤原詮子の子である懐仁親王が一条天皇として即位/姪の藤原定子(藤原道隆の娘)、姪の藤原彰子(藤原道長の娘)が入内する
いかがでしょう?
あまりにも複雑に入り組んでいて、パッと見で理解できる方は少ないと思われます。
人類は、経験則から近親婚をタブー視してきました。
しかし、そうしたリスクより政治権力が重視された結果がこの異常なまでの外戚政治なのです。
早期退位を願われてしまう冷泉天皇
異常事態とも言える政治状況を迎え、当時は天皇すら傀儡になってしまう。
いや、それこそが藤原氏の狙いと言える。
冷泉天皇は藤原安子の子であり、藤原詮子の姉である藤原超子(ちょうし/とおこ)、従姉の藤原懐子(かいし/ちかこ)が入内しています。
しかし、病弱で男子に恵まれず……と伝わっていますが、実際は疑念が生じるところです。
藤原氏による数多の陰謀が駆使されたのではないか?
その証拠は当然残されていませんが、退位後の冷泉天皇に子ができなかったわけではありません。つまり在位の間に男児が生まれる可能性もあった。
「狂気に蝕まれていた」ような表現も声高に語られてきましたが、誇張もあるとされ、どこまでが真実か不明でもあります。
いずれにせよ冷泉天皇の次代を担うべき東宮(皇太子)の候補は、村上天皇の皇子である以下の二人に絞られました。
為平親王(ためひらしんのう)
守平親王(もりひらしんのう)
いずれも藤原安子の子ですが、為平親王の妻は源高明の娘です。
もしも為平親王が即位すれば、源高明を外戚として台頭させることになり、藤原氏としては一歩も引けないところ。
結果、守平親王が東宮になるだけでなく、その2年後、高明は謀反の恐れありと密告され、政治的失脚に追い込まれます(【安和の変】)。
源高明の娘には道長の妻となる源明子もいました。
父の後ろ盾を失った明子はじめその娘たちは、弱い立場に置かれてしまうことになります。
そして安和2年(969年)、冷泉天皇は早くも退位することとなり、守平親王が円融天皇として即位。
冷泉の子ではなく、弟を東宮、そして天皇とする皇統が決まります。
円融天皇の中宮争い
こうなると、次は円融天皇に娘を入内させる、新たな外戚レースの始まりです。
権力志向の特に強い藤原兼家がこれに乗らないわけがありません。
なんとしても、我が娘を入内させ、ゆくゆくは中宮とする!――このようにして藤原詮子の人生は決まったのでしょう。
詮子の父・藤原兼家はもともと、長兄の藤原伊尹(これただ)と二人三脚で歩んでいました。
しかし天禄3年(972年)に伊尹が急死してしまい、二人の間で除け者にされていた二兄の藤原兼通が、対立していた弟である兼家のふるい落としにかかります。
兼通が味方にしたのが、藤原北家小野宮流の藤原頼忠でした。
貞元2年(977年)、病に倒れた兼通は、関白の座を頼忠に譲るのです。
これで頼忠の野心にも火がついたのか。兼家らの藤原北家九条流にあって小野宮流にない力を手にしようとします。
天元元年(978年)4月、藤原頼忠は娘の藤原遵子(じゅんし/のぶこ)を入内させたのです。
対抗するように兼家も、遠ざかっていた参内を6月に復帰させ、8月に詮子を入内させました。
こうした熾烈な権力争いが、大河ドラマ『光る君へ』の第1話で描かれた時代背景となります。
第1話の詮子は、家族の前で気丈に振る舞っていました。
「顔も見たことのない帝を好きになれるのか……」
そんな疑念を漏らす彼女は15歳であり、不安だらけでもおかしくはありません。
それでも気丈にふるまう詮子を見た円融天皇は、父の兼家に似ていると複雑な笑みを浮かべていました。

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)
史実においても複雑な状況は変わりなく、かくして円融天皇の周辺はこんな状況となります。
ここからは新たな権力レースの始まり。
円融天皇の子を、どちらの娘が先に産むか? 表現は悪いですが、現実問題、そこが運命の別れ目となります。
おまけに天元2年(979年)には、中宮だった藤原媓子(藤原兼通の娘)が亡くなり、その座も空位となった。
どちらが先に産むか、中宮は誰のものになるのか?
いよいよ白熱してゆきます。
懐仁親王(のちの一条天皇)を産む
天元3年(980年)、藤原詮子は東三条邸にて、懐仁親王(のちの一条天皇)を産みました。
これにて藤原兼家は、孫である“天皇の子”という最強のカードを入手。
俄然、有利になったようでいて、実際は番狂せが起きてしまいます。
天元5年(982年)、子を産んでいない藤原遵子が、中宮とされたのです。藤原頼忠の子であり、遵子の弟である藤原公任は勝ち誇ったようにこう言いました。

藤原公任(月岡芳年『月百姿』)/wikipediaより引用
「こちらの方(詮子)は、いつ立后なされるのでしょうねえ」
兼家は、怒髪天を衝くような怒りだったことでしょう。詮子と円融天皇の仲も悪化し、東三条から戻ることはありませんでした。
しかし、遵子が中宮になったところで、子が産まれないことには厳しい。
口さがない宮中の裏側では「素腹の后」と陰口を叩かれてしまい、彼女にとってはいたたまれない状況が続きます。
大河ドラマ『光る君へ』では、兼家が陰陽師である安倍晴明にこう依頼していました。
遵子が不妊になるようにせよ――。
むろん実際に手をかけるわけではなく呪詛でしょうが、重大犯罪に変わりはありません。
野心家の兼家がそんな危険な道を渡ったのは、外戚ポジションが完全に安泰とは言えなかったから。
遵子が皇子を産む前に、確たる基盤が欲しい。それには孫・懐仁親王(後の一条天皇)を東宮にして、いずれ即位させるしかない――。
兼家は孫を人質同然にその手中に収め、円融天皇と我慢くらべのような状況に突入します。
参内を取り止めると、その後いくら円融天皇が求めても、病だのなんだの言い訳して決して応じなかったのです。
結果、譲歩したのは円融天皇でした。
現東宮(師貞親王・冷泉天皇の皇子で後の花山天皇)に位を譲るとして、帝の叡慮を知ることもなく不満を訴える兼家に対し、最大限に譲歩しました。
花山天皇退位の謀略
円融天皇の言葉はその通りとなります。
永観2年(984年)8月に譲位し、花山天皇が即位。
とはいえ、兼家の孫である懐仁親王はあくまで東宮です。花山天皇はまだ若く、藤原頼忠も関白の座を譲ろうとしない。
しかも花山天皇は、兼家の亡兄・藤原伊尹の子である権中納言・藤原義懐(よしちか)を頼りにしています。
さらに頼忠は娘の藤原諟子(ただこ/まさこ/しし)を花山天皇に入内させました。
兼家にとっては非常にまずい状況です。
なんとか打開できないものか?
と、ここで藤原詮子の兄である藤原道兼が、父・兼家の意に沿い、謀略を駆使します。
このころ花山天皇は、熱愛していた藤原為光の娘・藤原忯子(しし/よしこ)を亡くし、世を儚むようになっていました。
寛和2年(986年)、藤原道兼は、そうして落ち込む花山天皇に「いっそ出家してはどうか」と持ちかけるのです。
自分も共に出家するとそそのかし、しかし、いざとなると「出家前に父に顔を見せてくる」と言って姿を消す。
花山天皇が「騙された!」と気付いたころには時すでに遅し――ついでにライバルの義懐まで出家させ、ついに兼家は権勢を確たるものとするのです(【寛和の変】)。

道兼によって出家に追い込まれた花山天皇を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用
結果、頼忠も関白を辞することになり、実権のない太政大臣に就任。
以降は兼家が関白として政治を取り仕切ることになりました。
一連の騒動に疲れ果てたのか。藤原頼忠は永延3年(989年)に世を去ることとなります。
国母として生きる
寛和2年(986年)、数え歳で7歳という、まだ幼い一条天皇が即位すると、藤原詮子は皇太后に冊立され「国母」となりました。
父・藤原兼家と共に天皇の後見を担うこととなり、詮子は東三条殿から内裏へ参入。
しかし、この幼帝の即位により、ややこしい事態も生じてしまいます。
幼い一条天皇に子がいるわけもなく、冷泉天皇の皇子が東宮とされたのです。東宮(皇太子)が天皇より年長であるという異常事態でした。
詮子にしても、政務の後見というよりは、まだ幼い天皇を抱き、面倒を見るような役割を果たさねばならない。
そうこうしているうちに正暦元年(990年)、藤原兼家が亡くなります。
死後の権勢を譲られたのは藤原道隆。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用
『光る君へ』では井浦新さん演じる兼家の長子であり、道隆は己の権威を盤石ものもとするため、一条天皇に入内させていた娘の藤原定子を立后とします。
正暦2年(991年)2月、譲位後は政治から退いていた円融法皇が崩御しました。
詮子は同年9月に出家して、皇太后宮職を停止。院号宣下を受けると、住まいである東三条邸にちなみ「東三条院」と称します。
歴史上における女院号はここに始まります。
この措置は異例であり、かなりの批判がありながら、兄である藤原道隆が推し進めたのでした。
弟・道長を引き立てる
長徳元年(995年)、藤原道隆と藤原道兼が立て続けに没しました。
以降、藤原詮子と行動を共にするのは弟の藤原道長となります。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
道長は、年長の女性から引き立てられることが多いと指摘されますが、姉である詮子もまさしくそうであり、しばしば相談を持ちかけています。
比類なき権勢を道長が得られたのも、この姉あってのこと。しばしば政治介入を繰り返す彼女は批判の対象ともなりました。
それは実子である一条天皇の皇妃についてもそうです。
一条天皇は、道隆の娘である定子を寵愛していました。
才女として名高い清少納言らが侍り、優雅なサロンを形成。
新たに入り込むのは難しい様相を呈していたため、道長の娘・彰子を入内させる過程において、詮子は画策します。
当時は父母両者の身分が重んじられる双系制の時代。
そこで彰子の母であり道長の妻である源倫子の身分の低さがネックとなっていたため、詮子が便宜を図り、従五位上から従三位にまで昇格させたのです。
ちなみに詮子は、道長の別の妻にも関わっています。失脚して後ろ盾を失っていた源高明の娘・源明子を道長に紹介したのは他ならぬ姉だとか。
ともかく、彰子が女御として入内したとき、一条天皇は戸惑ったとしてもおかしくありません。

一条天皇/wikipediaより引用
なんせ、つい最近まで雛遊びをしていたいようなあどけない彰子との間に、子が生まれるとも思えない。
定子の優美は佇まいと比べたら、どうしても見劣りしてしまうのではないか?
むろん道長もそこは考えてあります。
彰子の周りには、定子サロンに負けじと選り抜きの女房が集められました。
物語を執筆中で、父の藤原為時は漢文学者として名高い――紫式部が選ばれたのです。彼女は彰子の出産から『紫式部日記』を記すことになります。
詮子も、弟の見出した彼女の才知に、さぞや納得したことでしょう。
長保3年(1002年)、院別当の藤原行成邸で亡くなりました。
享年41。
「国母」の葬儀は盛大に行われました。
女人入眼の日本国を体現した東三条院
鎌倉時代の慈円は自著『愚管抄』にて「女人入眼の日本国」という言葉を記しています。
女性が政治の重要事項を決定するという意味であり、中世は、その後の時代よりも女性の権限が強かったとされています。
中国にロールモデルを求めた日本としては、唐の武則天という先例があります。
悪女とされる呂后も、この先例といえます。
のみならず、慈円がこう記したのは自身が藤原北家出身ということもあるのでしょう。
才知ある女性が政治の肝心なことを決める――よいことではないか。
道長を引き立てた藤原詮子こそ、その偉大なる先例といえるのでしょう。
父や兄弟の影に隠れるどころか、光を放っていた強い女性である詮子。
吉田羊さんが今後どう演じるのか、楽しみでなりません。
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【参考文献】
倉本一宏/日本歴史学会『人物叢書 一条天皇』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
倉本一宏『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』(→amazon)
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
他





