大河ドラマ『光る君へ』の第39回放送で注目された道長の次女・藤原妍子。
「すでに歳を取っている居貞親王(三条天皇)より、息子に嫁いだほうがいい」
そんな爆弾発言をして姉の彰子をハラハラとさせていましたが、その息子とは一体誰なのか?
というと敦明親王(あつあきら)です。
もしも妍子が敦明親王に嫁いでいたら、さらなる波乱となること必至だったでしょう。
というのも史実における三条天皇は、藤原道長からの圧迫を受け続けて譲位に至り、さらには敦明親王も皇太子の座(ひいては天皇の座)を譲らされる事態に陥っているのです。
いったい何がどうして、この父子はそんな目に遭うことになったのか。
三条天皇の詳細については以下の記事に譲り、
三条天皇(居貞親王)が道長と一条天皇の陰で過ごした41年の生涯を振り返る
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本稿では敦明親王の生涯を振り返ってみましょう。
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道長の全盛期 母の父は藤原顕光だった
「親王」というのは、天皇の息子のことをいいます。
敦明親王もその名の通り、三条天皇の息子として(994年)に生誕。
厳密にいえば、敦明親王が生まれたときの三条天皇はまだ居貞親王であり、生誕から17年後の寛弘八年(1011年)6月13日に即位しています。
敦明親王の母は藤原師尹の孫で、三条天皇の皇后である藤原娍子でした。
皇后から生まれた皇子ですから、従来であれば順当に皇太子となり、皇位を継いでいくはずです。
しかし、当時は藤原道長の全盛期。
母親が道長の縁者でなければ、皇族が本来の権力を振るうことは出来ません。
一応、長保二年(1000年)12月に敦明親王の読書始が道長の東三条邸で行われるなど、関係が悪くなかったであろう気配もありますが……寛弘三年(1006年)に元服と結婚をし、その相手は藤原顕光の娘・藤原延子でした。
顕光は道長の父・藤原兼家の兄の子ですので、道長とはいとこ同士です。
大きなグループで見ると「延子も道長の同族」でありながら、この時代の藤原氏はなまじ血縁が近いと政争の相手にしかなりません。
顕光の一族から妻を迎えても、道長の庇護は得られませんでした。
むろん、顕光も一応の出世はしておりますが、いかんせんこの時代は道長が抜きん出ていました。
こういった背景により、寛弘八年(1011年)に三条天皇が即位したとき、敦明親王は親王宣下を受けたものの、皇太子にはなれなかったのです。
では皇太子になったのは?
道長の孫である敦成親王(後の後一条天皇)です。力関係があからさまに出ていますね。
源政職を拉致して暴行
皇太子にはなれずとも、一定の役職は得られる――敦明親王は「式部卿」の官職を受けて社会人デビューしました。
式部卿は、式部省という役所の長官で、同省は文官に関する仕事を司っていました。
となると、なんとなく大人しそうな感じの仕事に見えますが……敦明親王は中々激しい気性の持ち主だったことが窺えます。
長和三年(1014年)のことです。
敦明親王は従者に命じて、加賀守・源政職を拉致し、妻の屋敷に連行の上で暴行を加えるという恐ろしい事件を起こすのです。
屋敷に連れて行く際は、わざわざ自分の足で歩かせ、さらし者にしたといいますが、これには一応、理由もありました。
当時、源政職は敦明親王の異母妹・禎子内親王に借金をしており、さらにそれを滞納していました。
自由に出歩けず取り立てができない妹に代わって、敦明親王が政職を引っ立てたのではないか?と考えられています。
それにしてもやり方が荒っぽすぎたため、公家たちは大いに動揺し、舅の藤原顕光まで批判の矢にさらされました。
この時代、結婚した後の男性を指導・監督するのは妻の父や実家の人々だったからです。
当時は妻の家に夫が通うという結婚形態だったため、妻一族の財力が非常に重要ですし、かなりの力を認められていたのは、大河ドラマ『光る君へ』でもご存知かもしれません。
あの道長も、正室である源倫子の実母・藤原穆子には頭が上がらなかったといいます。
道長と倫子の結婚を推し進めたのが穆子であり、そのおかげで道長が強大な権力を手に入れたのですから、当然と言えば当然ですかね。
敦明親王や他の公家たちも、穆子にツテを作ればなんとかうまくやっていけたのかもしれませんが……残念ながら、穆子は長和元年(1016年)に亡くなっていました。
当時12歳の敦明親王には荷が重かったでしょう。
これだけだと
「敦明親王ってやべー奴じゃん!こんなのが天皇にならなくてよかったじゃん!?」
と思ってしまいますが、行動力そのものが良い方向に動いたこともありました。
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