寛仁二年(1018年)10月16日は、藤原妍子が皇太后に、藤原威子が後一条天皇の中宮になった日です。
これだけだと何のこっちゃ?
という感があるかもしれませんが、彼女らが藤原道長の娘となると「んんっ?」と気になったりしませんか。
この世をば
我が世とも思ふ
望月の
欠けたることも
なしと思へば
いわゆる『望月の歌』であり、天下栄華を極めたこの歌を詠むキッカケになったのが、この日のことだったのです。
要するに藤原氏の最盛期ですね。
では、望月の歌はどこに記録されていたのか?
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次女と四女が揃って入内でガハハのハ by道長
望月の歌は藤原実資の日記『小右記』に記録されていて、国立公文書館さんもツイートしておりました。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば――栄華を極めた藤原道長がこの和歌を詠んだのは、寛仁2年(1018)10月16日の出来事。当日の様子が『小右記』に記録されています。http://t.co/HKt07UWfkT pic.twitter.com/KOPR61IB4i
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) 2015, 10月 15
その後、道長の栄華は長く続いたのか?
というと、実はそうとも言い切れないところがあります。
今回は意外と教科書には載っていない、藤原氏の「その後」を見ていきましょう。
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まずは、この日の主役となった二人の女性について。
妍子(けんし・きよこ)は道長の次女で、姉妹の中でもとりわけ美しいといわれていました。
若い頃は派手好きだったのか。
側仕えの女房たちもかなり着飾っていたようです。
道長は既に長女・藤原彰子(しょうし・あきこ)を入内させていましたから、妍子を入内させる頃にはもう「ワシの娘ならば相応のぜいたくもせんとなガハハ」(※イメージです)とか思ってたかもしれませんね。
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威子(いし・たけこ)は道長の四女です。
正室生まれで、実質的には三女といっても差し支えない扱いを受けていました。
しかし彼女が入内した相手は9歳も年下の後一条天皇、しかも一番上の姉・彰子の息子でしたので、当人は肩身の狭い思いをしていたようです。
入内したとき威子は20歳になっていたので、これも気まずい思いをする原因になったでしょうね。
当時とすれば「何か差しさわりがあって結婚できないのだろう」と思われても不思議ではない年齢でした。
道長の血を引く皇子が生まれてこない……
そんな感じの二人が入内し、同じ日に皇太后・皇后となったわけですが、既に日……いや、月は傾きかけていました。
妍子は皇子を産むことなく皇太后になりましたし、威子も皇后にはなったものの、やはり皇子を産むことはできませんでした。
これにより、永遠に続くかと思われた藤原氏の栄華は徐々にかげりを見せていきます。
その先駆けともいえる出来事は、道長の末娘・嬉子(きし・よしこ)が道長の存命中に亡くなったことでした。
当時の皇太子妃だったので、長生きしていれば皇后にも皇太后にもなったハズですけれども、かないません。
嬉子の忘れ形見となった皇子はやがて後冷泉天皇となりました。
しかし、この方からも皇子が生まれず、皇室における道長の血筋は絶えることになります。
また、嬉子が亡くなった二年後には妍子も両親に先立っており、『栄花物語』では「老いた父母を置いていってしまわれるのか」と道長が悲嘆にくれる様子が描かれています。
さしもの道長も、子供に相次いで先立たれるのは堪えたようですね。
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