望月の歌

『紫式部日記絵巻』の藤原道長(土御門殿にて)/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

道長「この世をば~」の絶頂歌 “望月の歌”はどんな状況で詠まれたか

2024/11/19

大河ドラマ『光る君へ』の第44回放送で、ついに「三后」を実現させた藤原道長。

・彰子が太皇太后

・妍子が皇太后

・威子が中宮

というように三人の娘たちが立后して父の栄華を支え、ドラマではこのとき例の歌が詠まれました。

皆さんご存知、こちらです。

この世をば
我が世とも思ふ
望月の
欠けたることも
なしと思へば

いわゆる『望月の歌』であり、天下栄華を極めた藤原道長が、この歌を詠むキッカケになったのが、寛仁二年(1018年)10月16日のことでした。

要するに藤原氏の超最盛期ですね。

では、望月の歌はどこに記録されていたのか?

その後の藤原氏の支配体制はどうなっていったのか?

ある意味“フラグ”とも言える当時の状況と、その後の藤原氏を追ってみましょう。

 


娘が揃って入内で最高潮

望月の歌は藤原実資の日記『小右記』に記録されていて、国立公文書館さんもエックスにポストを投下しておりました(その詳細はこちらへ→link)。

その後、道長の栄華は長く続いたのか?

というと、実はそうとも言い切れないところがあります。

まずは、この日の主役となった二人の女性について。

藤原妍子(けんし・きよこ)は道長の次女で、姉妹の中でもとりわけ美しいといわれていました。

若い頃は派手好きだったのか。

側仕えの女房たちもかなり着飾っていたようです。

道長は既に長女・藤原彰子(しょうし・あきこ)を入内させていましたから、妍子を入内させる頃にはもう「ワシの娘ならば相応のぜいたくもせんとなガハハ」(※イメージです)とか思ってたかもしれませんね。

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用

威子(いし・たけこ)は道長の四女です。

正室生まれで、実質的には三女といっても差し支えない扱いを受けていました。

しかし彼女が入内した相手は9歳も年下の後一条天皇、しかも一番上の姉・彰子の息子でしたので、当人は肩身の狭い思いをしていたようです。

入内したとき威子は20歳になっていたので、これも気まずい思いをする原因になったでしょうね。

当時とすれば「何か差しさわりがあって結婚できないのだろう」と思われても不思議ではない年齢でした。

 


道長の血を引く皇子が生まれてこない……

そんな感じの二人が入内し、同じ日に皇太后・皇后となったわけですが、既に日……いや、月は傾きかけていました。

妍子は皇子を産むことなく皇太后になりましたし、威子も皇后にはなったものの、やはり皇子を産むことはできませんでした。

これにより、永遠に続くかと思われた藤原氏の栄華は徐々にかげりを見せていきます。

その先駆けともいえる出来事は、道長の末娘・嬉子(きし・よしこ)が道長の存命中に亡くなったことでした。

当時の皇太子妃だったので、長生きしていれば皇后にも皇太后にもなったハズですけれども、かないません。

嬉子の忘れ形見となった皇子はやがて後冷泉天皇となりました。

しかし、この方からも皇子が生まれず、皇室における道長の血筋は絶えることになります。

また、嬉子が亡くなった二年後には妍子も両親に先立っており、『栄花物語』では「老いた父母を置いていってしまわれるのか」と道長が悲嘆にくれる様子が描かれています。

さしもの道長も、子供に相次いで先立たれるのは堪えたようですね。

 

九条、一条、二条……と地名を名乗っていく

藤原氏という家自体も、そのまま一枚岩ではいられませんでした。

道長の時代から100年ほど後に平家が台頭し、かつて道長が娘を通して皇室にやったことを、今度は平家にやり返されるような形で勢力を弱めていったのです。

一応、藤原氏も、何とか権勢を取り戻そうと頑張ったのですが、さすがに道長ほどの人物は出てきませんでした。

皇室や、他の公家にとってはよかったかもしれませんね。

そんなドタバタの間で藤原氏の血筋も分かれていき、やがて住まいのあった場所の名を取って「九条」「二条」「一条」という別の名字を名乗るようになっていきます。

この辺も、日本史の要所要所でお馴染みの名前ですね。

特に有名なところだと、大正天皇の皇后・貞明皇后は九条家の出身です。

「九条の黒姫様」と呼ばれるほど闊達だった方が道長の子孫にあたるというのは、ちょっと意外な感じもしますね。

『光る君へ』に近い時代で大河ドラマに縁がある人物ですと、『鎌倉殿の13人』に登場した九条兼実あたりも記憶に新しいかもしれません。

九条兼実/wikipediaより引用

 


全国へ散らばった藤原氏の名残り

また、武家の中にも藤原氏の末裔の家や遠い親戚にあたる家があります。

わかりやすいのは、源義経との関係が深い奥州藤原氏ですね。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用

いつ頃奥州へ行ったのかはっきりしないものの、京の藤原氏から「よくわからないけど、お前んちは親戚だと思ってるから」(※イメージです)という扱いを受けていたことがわかっています。

他には「扇の的」で有名な那須与一の那須家、家康の次男・結城秀康が養子入りした結城家、東北武家の名門・伊達家などが藤原氏の末裔を名乗りました。まぁ、この辺りはホントかどうかアヤシイところもありますが。

また、日本人に多い名字ランキングベスト10に入る「斉藤」も、藤原氏に始まるといわれています。

といっても、ほとんどの庶民は明治時代に名字を使うようになっていますから、これまた血が続いているかどうかは断言できませんが。

というわけで「藤原」のまま続いたわけではないのですが、血筋は今も続いているといって過言ではないでしょう。

確実に血が残っている有名どころだと、島津家絡みで度々登場する近衛家や、明治維新以降も京都に住んでいる冷泉家などがあります。

表舞台からは姿を消したものの、確実に子孫が繁栄しているという意味でみれば、道長の世が今も続いていると……。


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【参考】
国史大辞典
朧谷寿『藤原氏千年 (講談社現代新書)』(→amazon
藤原妍子/wikipedia
藤原威子/wikipedia
藤原北家/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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