敦明親王

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

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意外と好戦的な三条天皇の第一皇子・敦明親王~道長の圧迫で皇太子の座を譲る

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三条天皇と藤原道長

長和四年(1015年)、内裏で大火事が勃発。

このとき敦明親王は一刻も早く避難するため自ら母后を抱えて脱出するという、行動力のある一面を見せました。

それだけでなく、烏帽子を忘れた三条天皇に自分の烏帽子を譲るという、非常に勇気ある行動もしています。

当時の公家社会では、頭部や髻(もとどり・頭の上で束ねた髪のこと)を人目に晒すのは、現代人で言えば公衆の面前でパンツ姿になるのと同じ恥ずかしいことであり、自分を犠牲にしてでも父親の面子を保ったのです。

ただし、その直後に、周辺にいた別の貴族から烏帽子を取り上げて被ったそうなので、取られた貴族が気の毒なんですが……。

「私はあの危急のとき宮様のお役に立ったのです!」

なんて調子で、その貴族も誇りに思えてたらいいんですけどね。

なお、三条天皇は長和三年(1014年)頃から目を病んでおり、その最中に見舞われた火災で長男に救われ、父として頼もしかったことでしょう。

この頃の三条天皇は、道長と静かな闘い繰り広げている最中でもあったのでなおさら。

既に皇太子は敦明親王ではなく、道長の外孫である敦成親王に決定しており、三条天皇が譲位すれば道長の独壇場も当然の状況だったのです。

三条天皇/wikipediaより引用

道長としては、一分一秒でも早く孫を帝位に就けたい。

圧力を受ける側の三条天皇としてはたまったものではない。

眼病を患っていることも「譲位、はよ^^」と急かされる理由になってしまいました。

しかし、三条天皇もタダで譲位するのは悔しかったのでしょう。

「敦明親王を皇太子にするならば、すぐに退位しよう」

と道長に交渉を持ちかけます。

道長は敦成親王の同母弟である敦良親王をすぐに皇太子にするつもりでいましたが、ここは譲位を優先したようです。

こうして長和五年(1016年)1月29日に三条天皇は譲位し、敦成親王が即位して後一条天皇となりました。

敦明親王は父と同様、はるかに年下であった後一条天皇の皇太子に立ち、新たな体制がスタートします。

 


皇太子を敦良親王に譲る

敦明親王らの勢力に対し、藤原道長は地味な圧迫を加え続けました。

例えば「壺切の剣」※1について。

※1別名「壺切の御剣」「壺切太刀・つぼきりのたち」

皇太子には代々、この宝刀が伝えられていたのですが、敦明親王に渡さなかったのです。道長、子供かッ!

と、ツッコミたくもなるかもしれませんが、当時最大の権力者がこの調子となれば、他の公家たちも右に倣うしかありません。

敦明親王もずいぶん悩んだことでしょう。

そして寛仁元年(1017年)6月に三条上皇が崩御すると、唯一に等しい後ろ盾を失った敦明親王は決断します。

同年8月に皇太子を辞して、敦良親王にその地位を譲ったのです。

30代や40代で寿命を迎えてもおかしくない時代――8歳の後一条天皇の次に当時23歳の敦明親王が帝位へ付ける可能性はかなり低かったと考えられます。

そのため父の死が、敦明親王が帝位を完全に諦めるキッカケになったのかもしれません。

「ならば最初から皇太子になど、ならなくてもよかったのでは?」

現代人ならそう考えてしまうかもしれませんが、道長に対する精一杯の抵抗、あるいは意地や矜持などがあったのではないでしょうか。

道長は敦明親王の行動に大いに感謝し、暮らしに不自由することがないように取り計らっています。

「小一条院」の院号を授け、上皇と同じ扱いを受けられるようにし、さらには末娘の藤原寛子を妻として差し出したのです。しかし……。

苦境の中で敦明親王に長年連れ添ってきた延子にとっては、悲しい出来事。

病みついた彼女は寛仁三年(1019年)に急死してしまい、その父である藤原顕光も治安元年(1021年)に病没となります。

そのため「顕光父娘は怨霊になって寛子に祟った」と言われるようになり、顕光には「悪霊左府」という不名誉なあだ名までついてしまいました。

左府とは左大臣の異称で、顕光が左大臣だったことからきています。

まあ、この経緯では恨みたくもなろうというものですよね……。

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