歴史における兄弟とは、すなわち波乱――って、もはやお約束ですよね。
権力者の父親から譲り受けられる「長者(その家の長)」の座は、ただ一人のみ。
となれば、ほぼ同じ遺伝子を受け継いだ兄・弟たちで揉めるのは自然の摂理とも言えます。
取り巻きの家臣たちがワーキャーしますので戦争に発展することもあります。
正平七年=観応三年(1352年)2月26日は、足利尊氏の弟・足利直義(ただよし)が亡くなった日です。
知名度は、正直あまり高くありません。
が、実は日本史上最大クラス(仮)の兄弟ゲンカ「観応の擾乱」を兄の尊氏と繰り広げた当事者であります。
戦闘の兄・尊氏を政治の弟・直義が支える構図だった
尊氏と直義は最初から仲が悪かったわけではありません。
むしろ、源頼朝・源義経兄弟や、織田信長・織田信行兄弟と比べるととても仲良しでした。
同じ母親から生まれて育ちましたし、鎌倉幕府打倒の際には、感情の起伏が激しい尊氏を直義がよく支えて倒幕を成し遂げています。
それがなぜ大ゲンカになったの?
というと、室町幕府の実権をめぐっての争いがきっかけでした。
尊氏は上記の通り感情の起伏が激しい質で、政治的なバランス感覚もやや不安があったため、直義がそれを補うような形で幕府の舵取りをしていました。
いわば二頭政治で、当時も「両将軍」と称されていたようです。
尊氏が軍事を、直義が政務を。
そんな割り振りで、お互いの得意分野でもう一方の欠点を補うという【理想的な状態】。
また、尊氏は岩清水八幡宮に
「直義が一生幸せに暮らせるようお守りください」(超訳)
という願文を出しており、感謝の程と仲の良さがうかがえます。
うまくやれていればそのままでも良かったような気がしますよね。
ところがこれで面白くないのは他の重臣達、特に高師直とその愉快な仲間達であり、「二人とも将軍とかナイナイ」と言い出すと一触即発状態に陥っていきます。
直義が南朝につき「観応の擾乱」勃発!
ほどなくして事態が動きます。
高師直一派を排除したい足利直義の家臣たちが動きます。
「直義様は真面目に仕事やってんのにガタガタ抜かすな! 尊氏様に言い付けてやる!」
として讒言し、幕府中枢を追われてしまうのです。
当然そのままで済むはずがなく、高師直一派は武力をもって反抗。
これ以上放置すれば大事になると判断したのか、直義はここで頭を丸めて幕府を去りました。
直義の仕事は、後に二代目の室町将軍となる足利義詮が引き継ぐことになります。
さらに、尊氏の息子・足利直冬が「ボクに冷たいパパなんて大っ嫌い! 反乱しちゃうんだから!!><」(超訳)と言い出し、実力行使に出てきます。
直冬は直義の養子になっていたので、義父・直義のピンチに対する怒りも湧いていたのでしょう。
冷遇の理由は、尊氏いわく「アイツはちょっと精神的に不安定だから」というものだったそうなのですが、どの口が言うのかと……。
しかも直義、兄と離別するばかりか、なんと仇敵である南朝方についてしまいました。
「観応の擾乱(じょうらん)」というデカイ内戦の始まりです。
鎌倉の延福寺に幽閉 数日後に不可解な……
直義は、かつて南朝方のNo.2というか後醍醐天皇の嫡子だった護良親王をコロさせてしまったことがあるので、南朝からすれば仇も仇。
どう考えても手を組まない、組めない相手です。
しかし、南朝方も困っていたのは事実。
既に楠木家など中核となる人材をほとんど失ってすっからかん状態だったので、なりふり構っていられなかったようです。
仇敵をアッサリ自陣に引き入れる南朝の不義理に対して、護良親王は化けて出てもいいぐらいでしょう。
※ちなみに「護良」の読み方は「もりよし」と「もりなが」の二説あり
この辺からややこしくなってくるのですが、概ね
北朝方=尊氏
南朝方=直義
と考えていただければわかりやすくなるかと。
当初は直義のほうが優勢で、こっちについた武士が高師直らを倒すほどでした。
しかし、尊氏が南朝に降るような形で一時休戦すると、今度は新たに「直義は不届き者だからブッコロすように^^」という命令が尊氏に下ります。
そして尊氏とその息子・義詮に挟撃されてしまった直義は、京都を脱して鎌倉へ。
それもアッサリと見破られて、兵と将とを取り上げられ、丸腰同然になると鎌倉の延福寺というお寺に幽閉されました。
さらにその数日後。
なぜか突然不可解な死を遂げます。
太平記だけは「尊氏が直義を毒殺しました!」
世間的には「急病」ということにされました。
が、太平記だけは「尊氏が毒殺しました」と書いています。どこからどう見ても怪しさ爆発です。
そもそも京都から鎌倉まで逃げて兵を挙げた人が、死ぬ直前の病人であったはずはありません。
真相は今もハッキリしませんが、尊氏は亡くなる直前「弟を従二位にしていただけませんか」と願い出ているので、贖罪のニオイもしますね。
そもそも当人同士が仲違いしたわけでもありませんし、願文や尊氏の性格からすれば、必要なことだとわかっていても相当辛かったでしょう。
初の武家政権を作るために自分の意思で弟達を切り捨てた源頼朝や、そもそも父と母が同じ兄弟のいない徳川家康と比べると、肉親関係については尊氏と直義が一番可哀相なのかもしれません。
血縁とは本当に難しい。
いつの時代も人は大いに悩まされますね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
足利直義/wikipedia