夫の前では普段から気立てよく、家に帰ってきたときも笑顔でお出迎え。
しかし、陰ではATM扱いして、昼は高級ランチを楽しみ、ブランド品を買い漁る――。
そんな“プロ”の後妻業が昨今話題ですが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもそんなキャラが話題となりました。
菊地凛子さんが演じた“のえ”です。
当初は、主人公・北条義時の前ではおしとやかな女性として振る舞い、後妻の座を得た後は自身の息子を跡継ぎにするため尽力……あれはドコまで史実に沿った描写なのか?
実は彼女、史実においては伊賀の方と呼ばれ、最終的には【伊賀氏の変】という事件の当事者になります。
ならば、やっぱり悪女なのか!
と思われるかもしれませんが、事はそう単純でもなさそうです。
貞応3年(1224年)12月24日は彼女の危篤が鎌倉に知らされた日。
それから程なくして亡くなったと思われますが、本記事にて伊賀の方の出自や生涯と同時に、伊賀氏の変を振り返ってみましょう。
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二人目の妻と生別した義時
歴代の大河主人公で、北条義時は色好みの部類には入りません。
他の著名人物と比較すれば一目瞭然でしょう。
2021年『青天を衝け』の渋沢栄一。
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2023年『どうする家康』の徳川家康。
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そして本作『鎌倉殿の13人』で準主役だった源頼朝と比較すると、
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義時は生真面目とすら思えます。
なんせ二人目の妻である姫の前(比奈)には、必死に恋文を書いていた――という具合で、義時にとっては珍しいロマンスとして逸話が残されていたほどです。
では三人目の妻である伊賀の方(のえ)は?
その出会いに触れる前に、姫の前との別れについて少しだけ注目しておきたいと思います。
二人はなぜ別れたのか?
義時と姫の前の離別は、史実でも辛いものだったと推察できます。
頼朝の死後に起きた北条と比企の対立がありながら、義時は結婚に際して「決して別れない」と神仏に誓っていました。
信心深い中世人にとっては、たとえ政治的対立という背景があっても、約束を違えての離縁はそれこそ恐ろしいことだったでしょう。
しかし、結局は別れ、お互い別の相手と再婚しました。
別れたのは何時のことだったか?
比企一族が決定的な破滅をした後か、それとも危険を察知して【比企能員の変】直前に鎌倉を離れたか、特定は難しいところです。
ただし、彼女が京都に向かったことは藤原定家の日記『明月記』等からわかります。
姫の前は、中流貴族で新三十六歌仙にも選ばれた歌人・源具親(みなもとのともちか)の妻となり、元久元年(1204年)には源輔通(みなもとのすけみち)を産みました。
同じく比企の血を引く平賀朝雅(北条時政の娘婿)が京都と縁が深いので、そうした人脈を経由したのでしょう。
そして建永2年(1207年)に死去したとされます。
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では、義時は?というと、伊賀の方(のえ)との出会いもまた、人脈を通しての話でした。
三人目にして最後の妻・伊賀の方(のえ)
妻と生別したとはいえ、まだ壮年だった義時。
武家の妻には果たすべき役割が多々あり、鎌倉幕府の重鎮ともなれば、サポートが無いことにはどうにもなりません。
そこで3人目の妻、継室(正室の後継)として選ばれたのが伊賀の方です。
ドラマでは二階堂行政が「わしの孫」と強調していましたが、以下のような父母となります。
父:伊賀朝光(藤原朝光)
母:二階堂行政の娘
二階堂行政は京都から送られてきた文官の一人。
藤原南家・乙麻呂流工藤氏の子孫とされ、実は頼朝とも少し遠い血縁者となります(詳細は以下の記事へ)。
二階堂行政は腹黒の文官に非ず~孫が【伊賀氏の変】を起こすも本人は超マジメ
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一方、父の伊賀朝光は藤原氏出身の御家人であり、承元4年(1210年)に伊賀守となったため、名字を「伊賀」としました。
その娘「伊賀の方」は、父は御家人として活躍し、母方の祖父である二階堂行政も「十三人の合議制」に名を連ね、家柄としては申し分ありません。
姫の前(比奈)のように、実家が対立しそうな不穏な要素もなく、再婚には無難な相手だったでしょう。
では、伊賀の方はいつから記録に出てくるか?
これが中々ショッキングな日で、彼女が『吾妻鏡』に登場する日は、元久2年(1205年)6月22日 ――畠山重忠が討ち果たされた日です。
いったい何があったのか。
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