北条泰時/wikipediaより引用

鎌倉・室町

北条泰時ってマジメ……だがそれがイイ60年の生涯で【御成敗式目】も制定!

親と子は基本的に似る一方、たまに『本当に親子なんだろうか???』と、首を傾げたくなるケースもありますよね。

戦国大名でいえば、父・宇喜多直家(暗殺の達人)と息子・宇喜多秀家(秀吉政権のエリート大名)とか。

実は、鎌倉時代にもそんな親子がいました。

北条氏のポジションを確定させた父・北条義時と、その息子・北条泰時です。

御成敗式目を制定した人として知られていますね。

先日お話した通り、義時のやり方はかなり強引で、当時から「アイツ、サイテー!」(超訳)という評価が圧倒的多数でした。

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しかし、泰時についてはほとんど悪評がありません。

その人柄は古代中国の聖人である堯(ぎょう※1)や舜(しゅん※2)に例えられるほど。

なぜ、親子で同じような立ち位置にいたにもかかわらず、そこまで評価が異なったのか?

泰時の生涯と共に追いかけてみましょう。

鎌倉幕府の歴代将軍】
源頼朝(1192-1199年)
源頼家(1202-1203年)
③源実朝(1203-1219年)
④藤原頼経(1226-1244年)
⑤藤原頼嗣(1244-1252年)
⑥宗尊親王(1252-1266年)
⑦惟康親王(1266-1289年)
⑧久明親王(1289-1308年)
⑨守邦親王(1308-1333年)

【鎌倉幕府の歴代執権】
北条時政(1203-1205年)
②北条義時(1205-1224年)
北条泰時(1224-1242年)
④北条経時(1242-1246年)
北条時頼(1246-1256年)
北条長時(1256-1264年)
⑦北条政村(1264-1268年)
北条時宗(1268-1284年)
北条貞時(1284-1301年)
⑩北条師時(1301-1311年)
⑪北条宗宣(1311-1312年)
⑫北条煕時(1312-1315年)
⑬北条基時(1315-1316年)
北条高時(1316-1326年)
⑮北条貞顕(1326-1326年)
⑯北条守時(1326-1333年)

※()内は在職期間です

 

有力御家人・三浦氏の娘を娶る

泰時が生まれたのは、まだ平家の天下だった寿永二年(1183年)のことでした。

幼名は「金剛」といいます。金剛力士や金剛山など、いろいろなものにつく言葉ですから、耳馴染みのある方も多いでしょう。

ダイヤモンドのことを「金剛石」ともいいますね。元々の意味としては「金属の中で最も硬いもの」、そして「極めて強固で破れないもの」という意味があります。

もしかすると、このあたりから父・義時や北条氏が密かに「この子が育つ頃には、ウチが平家よりスゴイ家になってやる!」という意気込みを持っていたのかもしれませんね。

そう考えると、なかなかのネーミングセンスです。

1194年に元服したときには、既に平家は没落しており、鎌倉幕府も始まっていました。

その後、1202年に有力御家人・三浦義村の娘と結婚し、スグに子供にも恵まれています。

並行して鎌倉幕府二代将軍・源頼家、次いで三代将軍・源実朝に仕えていました。

つまり、祖父・時政や、父・義時の政治的・軍事的な動きも見ながら育ったことになります。何か思うところもあったでしょう。

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藤原頼経を元服させたり将軍位に就かせたり

むろん、若い泰時では、父や祖父には逆らえません。

和田義盛の乱で戦功を上げたり、承久の乱(1221年)で叔父・時房とともに幕府軍を率いたり、真面目に働きます。

和田義盛/Wikipediaより引用

承久の乱後は、しばらく京都の六波羅探題を務めていました。

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このとき、泰時が京都の北側、時房が南側を担当していたそうです。

身内とうまくやれていた……というだけで、この時代の武士としては珍しく感じてしまうのはきっと気のせいデスネー。

承久の乱から三年経った元仁元年(1224年)に、父・義時が亡くなったため、泰時は鎌倉に戻ります。

そして執権の職を継ぎ、四代将軍・藤原頼経を支えることになります。

藤原氏から迎えた頼経を元服させたり、将軍位を受けさせたのも、実は泰時の代になってからでした。

跡を次いでしばらくの間、泰時は伯母である北条政子と相談して政務にあたっていたようです。

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義時の遺領相続についても、

「弟たちとの争いを避けるため、私の取り分を少なくして分割しようと思います」

と自ら政子に提案し、政子に感心されたとか。

一言でまとめると「控えめで真面目な長男」という感じでしょうか。

そういった人物は得てして引っ込み思案になりがち、かつ貧乏くじを引くことが非常に多いですよね。

しかし、泰時は言うべきところややるべきことはきっちりやっています。

 

執権補佐役「連署」を設けて独裁色を弱める

嘉禄元年(1225年)、政子が亡くなってからは、鎌倉幕府の制度に大きくメスを入れました。

まず、執権の補佐役である【連署】を設けて、叔父・北条時房を任命。さらに、評定衆を置いて、独裁色を弱めました。トーチャンとは真逆の方向性といえます。

また、幕府を大倉から宇都宮辻子(ずし)に移して、鎌倉大番の制を整えています。

これはただの移転というよりは、「これからの幕府は違うんだ」という心機一転の意味が強かったのでしょうね。移転だけに一転……なんでもありません。

こうして鎌倉幕府の新たなスタートを切った泰時。

次の目的は、武士に法律を浸透させることでした。

というのも、承久の乱以降、あっちこっちで土地に関する武士の紛争が相次いでいたのです。

原因は主に地頭の横暴な振る舞いや、収入額に関するものだったとか。これまで、そういった争いは慣例に基づいて裁決されていましたが、慣例とは誰もが知っていないと成り立ちません。

当事者二人のうち、片方だけが自分に有利な慣例を知っていて、もう一方が知らなかったとしたら、後者が損をしてしまいますよね。

泰時はそうした不公平を是正すべく、武士の実情に沿った法律を作ってそれを広めようとしました。具体的には……。
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