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【北条泰時】
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反対したのは、上皇二人を支配下に置きたい……というより、他の公家や武士が
「なんだ、幕府に逆らっても何年かで元に戻れるのか。なら、何かあったら味方を集めて幕府を潰してやるぜ」
などと考えてしまうのを防ぐ意味ではないかと思われます。
源頼朝も、かつて伊豆に流されてから20年間(政治的には)おとなしくしておくことで、平家の目を欺いたわけですしね。
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泰時は朝廷や京都を軽んじていたわけではありません。
暦仁元年(1238年)に、将軍・頼経が上洛したときにはお供を務めています。
しかも、単に顔を出す程度ではなく、朝廷との友好関係を保つべく努力しています。
幸い、村上源氏の血を引く公家の一人・土御門定通の妻が、泰時の異母妹だったため、彼らを通じてパイプを作ることができたようです。
また、京都に「篝屋(かがりや)」という御家人の詰め所を数十ヶ所設置し、治安向上を図りました。
これは鎌倉時代を通して続き、室町時代への過渡期には、篝屋にいた御家人が各地での戦闘に駆り出されたこともあったとか。
まぁ、それも足利尊氏が六波羅探題を攻めるまでの話で、その頃には篝屋などにいた在京の御家人は、幕府を見限っていたようですけれども。
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四条天皇が自分のイタズラで急死
そんなこんなで、北条泰時の京都滞在は10ヶ月もの長期に及びました。
その間、鎌倉で大きな問題が起きていないあたり、幕府や北条氏の力が安定していたと見ることができますね。
泰時、最後の大仕事は、急死した四条天皇の後継者を決めることでした。
四条天皇は1歳で即位という「古代・中世あるある」な経緯で皇位に就いたのですが、11歳で事故死してしまったのです。
その経緯は「臣下や女官を驚かせようと、御所の廊下に石を置くイタズラをしたら、誤って自分で踏みつけて転んでしまった」というものでした。
まぁ、天皇とはいえ、今なら小学校高学年の年齢ですから……。
ともかく朝廷は大パニック。
とりあえず幕府へ知らせを出したものの、当時の交通・郵便事情では、往復だけで何日もかかります。
そのため、日本史上、数少ない「空位の期間」ができてしまいました。
鎌倉時代の説話集「沙石集」でも称えられ
将軍・藤原頼経の実家である九条家では、順徳上皇の皇子を次の天皇に推挙しました。
が、順徳上皇は「承久の乱」首謀者の一人です。幕府からすると「父の恥を雪ぐために、また討幕軍を起こされるかもしれない」わけです。
そこで、北条泰時は承久の乱に関与していなかった、土御門上皇の皇子を強く推しました。
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最終的にこちらの意見が通り、後嵯峨天皇として即位しています。
こうして皇位継承問題は解決されましたが、後嵯峨天皇が後にアレコレして南北朝の問題が起きるという……。
何かがうまくいくと、別の何かが悪い方向へ行く、というのは皮肉なものです。
歴史では常にある話ですが。
泰時はこの騒動の前年にも体調を崩しており、寿命を意識していたようです。
後嵯峨天皇が即位してから三ヶ月後に出家し、「観阿」と名乗りました。
そしてその翌月に亡くなっています。
享年60。
★
泰時に、悪評がなかったわけではありません。
しかし、それ以上に好意的な評価のほうが多く残っています。
やはり御成敗式目の制定によって、武士の行動基準を作ったことが大きいのでしょう、
また、朝廷に媚びへつらわず、あくまで分をわきまえて行動したことも評価の理由と思われます。
鎌倉時代の説話集『沙石集』にも、泰時が公正な裁判を心がけて実行したこと、情に厚い人物であったことがうかがえる話が多く載っています。
歴史の資料は、基本的に近い時代に成立したもののほうが信憑性が高いとされていますので、同時代の『沙石集』に書かれたとおり、泰時は優れた人物だったと見る方が自然でしょう。
強引な手で北条氏の権力を確立した父の北条義時。
もしかしたら息子の泰時は、自分の代で恨みを軽減するよう、強く意識していたのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「北条泰時」
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(→amazon)
関幸彦/野口実『吾妻鏡必携』(→amazon)
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon)
鎌倉大仏殿高徳院(→link)
北条泰時/wikipedia