正平十三年・延文三年(1358年)4月30日は、室町幕府初代将軍・足利尊氏が亡くなった日です。
鎌倉幕府を滅亡させたかと思ったら、南北朝問題と兄弟喧嘩で激しく東奔西走したり、室町幕府を開いたり、さらには一時「日本三悪人」の一人に数えられたり……。
何かとお騒がせなタイプの人ですが、一方でカリスマ的な魅力も持っていたと思われる人です。
摩訶不思議な尊氏の生涯を追いかけてみましょう。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
最初は日陰者だった尊氏
足利尊氏は当初「高氏」という字を使っていました。
当時の鎌倉幕府執権・北条高時から一字もらったものとされていますが、足利氏は源氏の一門。

北条高時/wikipediaより引用
源頼朝の舅の家とはいえ、本来ならば家臣筋の北条氏から偏諱を受けるというのは、妙な気持ちになったことでしょう。
そんな高氏の出生地はドコなのか?
というと、よくある話ながらハッキリしていません。
足利氏はその名の通り下野国足利(現・栃木県足利市)を本拠としていながら、鎌倉幕府ができてからは源氏の名家代表として鎌倉にいることが多かったからです。
また、母が上杉氏の出身であることから、その本拠地だった丹波国上杉荘(現・京都府綾部市)で生まれたのでは?という説も有力になっています。
これらの理由により、
「もしかすると、高氏は足利に行ったことがなかったのでは?」
という見方も出てきています。
新田義貞が鎌倉幕府にモブ扱いされ、地元で苦労していたのとは対照的ですね。
ちなみに、足利家と新田家の初代は兄弟同士ですので、まさに血を分けた一族だったりします。
側室の子で長男でもなかった
後の室町幕府創設者にしては曖昧なところが多い足利高氏。
父の正室生まれでもなければ、庶出の長男でもありません。
正室生まれの兄・足利高義がいて、順当に行けば彼が足利家を継ぎ、高氏は弟・足利直義とともに長兄を支えていくことになっていたでしょう。
しかし、高義が若くして亡くなってしまい、その子供たちはまだ幼少ということで、尊氏が跡目を継ぐことに……なりませんでした。
長兄が亡くなったとき、高氏は12歳。
そのタイミングで元服をして、兄の代わりに跡を継いでも不思議ではない歳です。
なのに父・貞氏はそうせず、自分が再登板しています。

足利貞氏/wikipediaより引用
「正室の血筋を引く少年を当主にするのは心もとないが、だからといっていきなり側室生まれの次男に継がせると後々面倒そうだ」
おそらく、そんな考えだったのでしょう。
この摩訶不思議な思考回路は、後の尊氏とも少し似ている気がします。
親子って、似てほしくないところが似るものですよね。
27歳でようやく足利当主に
足利高氏は、15歳で元服。
その後もすぐには家督を継がせてもらえず、しばらくは日陰とも日向ともいえない場所に置かれました。
ただし、非公式に結婚して息子をもうけたりして、不幸まっしぐらというわけではなかったようです。
足利家は代々北条一族から正室をもらうことになっていたので、高氏も例にもれず、北条氏の一族から正室を迎えています。
赤橋登子と言い、後に室町幕府二代将軍・足利義詮を生む人です。
ここでもまた「側室生まれの長男」と「正室生まれの次男」という複雑な構図ができてしまったのですが、後に哀しい形で解決することになります。

足利義詮像/Wikipediaより引用
元弘元年/元徳3年、父の貞氏が亡くなると、高氏は27歳でやっと足利の家督を継ぐことができました。
同時期に、上方では南朝の後醍醐天皇が「今度こそ鎌倉幕府を倒してやる!」と音頭を取りはじめます。
実はこれ以前にも後醍醐天皇は倒幕の動きを見せていたのですが、計画が露見して延び延びになっていました。
今日では当時の年号をとって【元弘の乱】と呼ばれているこの戦い。
鎌倉幕府もタダでやられるワケはありませんから、全国の武士に動員をかけます。
高氏は「父の喪中&自分も病気なので……」という至極まともな理由で断ろうとしましたが、「幕府が危ないってときにフザけてんの?」(※イメージです)と言われて無理やり出陣させられたことになっています。
『太平記』などでは、これをきっかけに高氏が鎌倉幕府や北条氏に恨みを持つようになったとされていますが……。
こうして元弘元年(1331年)、足利軍は西へ向かったのでした。
正成に勝ち 賞賛を浴びるも一人でさっさと帰還
このとき足利高氏が向かう予定だったのは、これまた南北朝の主役の一人・楠木正成の赤坂城でした。
正成は奇策を用いて幕府軍を翻弄し、「ここは守りきれない」と判断すると、自害したと見せかけて城に火をかけ、逃亡。
戦としての勝者は高氏ですが、なんとも消化不良な結果に終わりました。
そのため幕府からも他の武士からも「さすが足利氏!」と賞賛を浴びながらも、高氏本人は不服だったらしく、一人でさっさと鎌倉へ帰ってしまいます。
あまりの非礼ぶりに、褒美をやる予定だった花園上皇も
「いくらいい仕事したからってあの態度はないでしょ……」(超訳)
と呆れ果てています。
騒動が終わった後は関係者が次々と処罰され、後醍醐天皇は廃位の上、隠岐島へ流刑。
高氏は第一の功績者として従五位上の位をもらいますが、幕府への不満は残ったままだったと思われます。
その翌年、後醍醐天皇が再三倒幕計画を立てた際、高氏は倒幕方につくことを考え、弟・直義に相談しました。
「幕府を欺くために妻子を人質に出し、誓書も出す。いざというときは妻子を逃がせるよう、郎党を数人つけておく」
表面上は味方になった高氏について、幕府の方では
「高氏の妻は赤橋氏(北条氏の親族)出身だし、もう子供も作ってるし、源氏の名門だし、これで一安心」
と思っていたことでしょう。
元弘三年(1333年)4月、こうして高氏は再び西へ向かいました。
この間に楠木正成が復活して千早城で幕府軍を引き付けており、同年3月には幕府方だった新田義貞が戦線を離れています。

楠木正成/wikipediaより引用
これは完全に憶測ですが、この後の動きを考えると、どこかで足利・新田間の連絡があったかもしれませんね。
高氏はこの後、近江で後醍醐天皇から倒幕の綸旨を受け、京都にあった鎌倉幕府の出向機関・六波羅探題を攻略。
同時に各地の武士へ倒幕に協力するよう密書を送りました。
前述の通り、このとき高氏の正室・登子と嫡男・義詮は鎌倉で人質になっていたので、護衛役の郎党達によって脱出しています。
一方、側室生まれだった長男・竹若丸は、同じように脱出した後、駿河国浮島ヶ原(現・静岡県沼津市)で幕府の追手にかかって殺されてしまったといわれています。
長庶子もいずれきちんと世話しようと思っていたのか。
それとも幼くして亡くなったことを哀れんだか。
高氏は後々、同じ駿河の地で竹若の菩提を弔いました。
いろいろとトリッキーな言動の多い高氏ですが、少なくとも死者の供養については常識的というか、信心深さが浮かんできます。
義貞が鎌倉幕府に引導渡す
「源氏の名門・足利が幕府を裏切った!」
そんなビッグニュースは、各地の武士を大きく動かしました。
後醍醐天皇も隠岐を脱出し、上方では後醍醐天皇の皇子・護良親王が指揮を取り、倒幕の機運がうなぎのぼり。
同じ頃、足利高氏の妻子(登子と義詮)を保護した足利氏の家臣たちが上野に走り、これまた源氏の名門である新田義貞に合流。
そして義貞は、義詮を旗頭として兵を挙げ、鎌倉を攻めて幕府本体を滅ぼします。
「同族が離れたところで協力し、大きな組織を滅ぼした」
そんな実に胸アツな展開のはずですが、この後のゴタゴタが本人たちも後世の我々も悩ませてくれてしまうためか、プラスな印象で語られることはあまりないような気がします。
この時期はとにかくいろいろな人が同時に動くのがやっかいなところ。
鎌倉幕府滅亡の後は、いったん京都へ視点を移しましょう。
目の上のたんこぶだった幕府が滅んでホクホクな後醍醐天皇は、当時も今も悪名高き【建武の新政】を始めます。

後醍醐天皇/wikipediaより引用
倒幕における最大の功労者だった高氏ももちろん褒美を与えられ、従四位下左兵衛督に昇格しました。
さらには鎮守府将軍の職と、後醍醐天皇の本名である「尊仁」から「尊」の字を拝領して、いよいよ存在感を強めていきます。
ここからは「尊氏」と表記しますね。
足利尊氏は「自らは朝廷の実質的な要職を望まず、自分の配下を建武政権に送る」という形を取りました。
なぜ、そんな方法を選んだのか?
これまた不思議な行動ですが、尊氏の人格評に「人からの贈り物や褒美を気前よく部下にやってしまう」というものがあるので、それと似たような感覚だったのかもしれません。
あるいは、この頃から「どうしても征夷大将軍の職がほしい。それ以外の官職などどうでもいい」と思っていたのでしょうか。
それとも中央政府に食い込みすぎた平家の轍を踏むまいと意識していたのでしょうか。
一方で、倒幕の立役者のひとりである護良親王はこのあたりの動きから尊氏を警戒し、後醍醐天皇にも注意を促していたと思われます。
天皇もそれを容れたものか、新田義貞や楠木正成には記録所などの新しい役所へ参加することを許している一方で、尊氏にはそうした役職を与えていません。
つまりこの時点での尊氏は、「天皇からの偏諱」その他の栄典は受けていたものの、宮廷における実権は持っていなかったことになります。
尊氏「護良親王に謀反の疑いあり!」
足利尊氏は、着々と地方の武士を傘下に収め、力を蓄えていました。
尊氏の計算高いところは、弟・足利直義に鎌倉を任せた点にも見えています。
現代の我々には想像しにくい面がありますが、特に東国の武士にとって、鎌倉は何が何でも確保しておきたい土地。
当時はまだ北条氏の残党も粘っていたため、それらに対する牽制もありました。
意地の悪い見方をすれば、鎌倉にある程度兵を置いておけば、北条方が向こうから来てくれるわけです。
鎌倉の防御能力や天災への弱さはデメリットですが、兵糧調達や移動時間の短縮が図れる点はかなりのメリットにもなりえます。
実際には武士たちが鎌倉にこだわりすぎたせいで、この後二百年くらい関東がゴタゴタするんですけれども……。
後醍醐天皇は尊氏を正三位・参議に格上げすることでなだめようとします。
しかし、それで満足する尊氏ではありません。
建武元年(1334年)11月、尊氏は「護良親王に謀反の疑いがあります!」と後醍醐天皇に迫り、あろうことか親王をしょっぴいて鎌倉にいる直義の預かりとしました。
なんでこのタイミングで後醍醐天皇が尊氏を信じたのか、なぜ息子を信じなかったのかが解せないのですが……。

護良親王/wikipediaより引用
ここでトラブルが起きます。
建武二年(1335年)に最後の北条得宗・北条高時の遺児である北条時行とそれを庇護する諏訪氏らが鎌倉奪還に動き、直義は一時退かざるをえなくなってしまったのです。
ついでに直義はこの時、護良親王を殺して後顧の憂いを断っています。
源氏の嫡流が途絶えた後、鎌倉幕府の将軍は藤原氏の御曹司や皇族が就いていましたので、それを時行方に再現されてしまうと困るからです。
直義は「名目上の鎌倉将軍」として後醍醐天皇の皇子・成良親王を戴いていたため、この点も抜かりなかったのでしょう。
これらの知らせを受けた尊氏は、後醍醐天皇に「弟の救出と鎌倉の再奪還のため、私を征夷大将軍に任じてください」と申し出ました。
しかし、後醍醐天皇はこの申し出を警戒。
「いきなり征夷大将軍になりたいって言いだすなんて、さてはコイツ……今度は自分が鎌倉で幕府を作る気だな。そうはさせん!」
と、尊氏の望みは叶わず、征夷大将軍の座は成良親王に与えられています。
実は護良親王も以前この職についていたことがあるので、それなら護良親王をずっと征夷大将軍にしておいたほうが良かったんじゃ……とツッコミたくなるところ。
中心人物である尊氏と後醍醐天皇の信念がよくわからないことが、この時代がややこしくなっている最大の要因かもしれません。
後醍醐天皇との軋轢
この時点で足利尊氏が新たに幕府を作ろうとしていたのかどうか。
彼の真意はハッキリしませんが、行動は迅速でした。
天皇の許しを得ないまま、鎌倉へ猛スピードで進軍したのです。
後醍醐天皇はこれに驚き、慌てて尊氏に「征東将軍」の位を与えて、行動を追認する形を取りました。
「東の蛮族を打つ権限は与えるが、幕府を作るのは許さない」という意思表示かと思われます。
このときから少しずつ、尊氏と後醍醐天皇の間に溝ができていきました。
北条時行軍から鎌倉を奪い返した尊氏は、この後、従二位に昇格されながら、上洛を拒んで鎌倉に留まります。
足利直義の意見を容れたためのようです。
「再び北条時行らに入られては困るので、それを警戒した」ともとれますが……遠く離れた京にいる後醍醐天皇の警戒心を煽ることにしかなりません。
「やっぱアイツ幕府作る気じゃん! すぐ潰さないと!!」
として、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じました。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用
こうして、今度は源氏同士で戦う、お決まり……もとい悲劇の構図になりました。
歴史を辿ると「源氏って何回仲間割れするのよ?」とツッコミたくなるかもしれませんが、このときは天皇がかなり絡んでいる分、問題がこじれにこじれます。
尊氏としてはやりたいことをやっただけであって、後醍醐天皇に逆らうつもりはなく、驚くばかり。
髪を落としてお寺にこもり、謝意を示しましたが、既に新田軍は鎌倉へ迫っていました。
やる気を出さない尊氏に代わって、直義たちが迎え撃ちますが、戦況は圧される一方でした。
「直義が殺されそう」
「重臣の高師直もヤバそう」
そんな報を聞いた尊氏は『弟や部下が死んだら俺が生きていても意味がない』と気を取り直し、兵を挙げます。
そもそも「弟を失うと自分もヤバイ」という考えで関東まで来ていたわけですしね。
元々その寛容さや、いざというときの肝の座りようで、部下からは絶大な信頼を受けていた尊氏。
彼が出てきただけであっという間に足利軍の士気は上がり、義貞を押し返して京都へ向かいました。
後醍醐天皇は比叡山へ逃げこんだものの、安心とはいい難い状況。
ここで後醍醐天皇を救うため、北畠顕家という公家が遠い陸奥の地から驚異的なスピードでやってきました。
奥州将軍府(後醍醐天皇が作っていた東北の統治機関)を任されていた顕家は、凄まじい進軍速度でやってきて、義貞や楠木正成と京都付近で合流し、尊氏は京都から退いて西へ。
幕府創始者 一度は死に物狂いで逃げる法則
源頼朝が挙兵直後に石橋山の戦いで大敗し、安房へ逃げたときといい。
徳川家康の【神君伊賀越え】といい。
幕府創設者は一度死に物狂いで逃げなくてはいけない――みたいな法則でもあるのか。
あるいは「死に物狂いの状況から立て直せるような人だけが、新たな政権を作れる」ということなのか。
北畠顕家が上方にとどまっていれば、その後の展開はかなり変わったかもしれません。
しかし後醍醐天皇は足利尊氏を一旦追い出したことですっかり満足&安心してしまったようで、顕家を陸奥へ戻してしまいます。
一方、尊氏は、光厳上皇(後醍醐天皇が流刑に遭っていた間に即位した天皇・125代の中には含まれていない)に連絡を取り、院宣(上皇の命令)をもらいました。

光厳上皇出家後の姿/wikipediaより引用
この辺は皇室の問題である【両統迭立】が絡んでおり、後醍醐天皇は「大覚寺統」、光厳上皇は「持明院統」という皇室内の別系統だったので、いわば政敵同士だったのです。
そして足利軍が西へ向かう間に光厳上皇から返事が届き、尊氏は西国の武士をまとめることに成功しました。
実はこの道中で尊氏は
「帝に逆らうなんて嫌だ!切腹してお詫びするしかない……!」
と、味方が望んでいない方向の覚悟を決めようとし、直義や師直らが
「兄上(殿)なら大丈夫ですよ!!」(※イメージです)
と励まし続けたことにより、再起できたという経緯もあります。
この時点で尊氏を見捨てて直義を旗頭にしても良さそうなものですが、そうしないあたりが兄弟仲の良好さをうかがわせますね。
漫画『逃げ上手の若君』では、尊氏が人外の力を手に入れて人々を魅了した……というファンタジックな流れになっていますけれども、むしろそっちのほうが納得できてしまうくらいに不安定なトップでした。
いずれにせよ、こうして戻ってきた尊氏軍と、天皇方の義貞・正成が【湊川の戦い】で激突。
結果、正成と楠木一族が自害し、後醍醐天皇方の戦力は大きく削がれました。
足利尊氏は、軍を引き連れ、再び京都へ。
この辺が尊氏vs後醍醐天皇のクライマックスでしょうか。
余談ですが、湊川へ赴く前あたりに、尊氏は新たな趣味を見つけたとされています。
地蔵菩薩の夢を見たのがきっかけで、地蔵菩薩の絵を描くようになったのだそうです。
これはいくつか現存しており、かなり上手です。
ただ『足利尊氏筆日課観音地蔵像』という作品は、同じ紙に観音菩薩や地蔵菩薩が横に連続で描かれていて少々恐ろしげにも見えます。

『足利尊氏筆日課観音地蔵像』/栃木県立博物館HP(→link)
裏にも描いているため、どちらの面から見ても常に裏の絵が透けているからですかね。
有能な君主のもとで、忠実な武働きを望んでいた?
後醍醐天皇に逆らう気も、害する気もなかった足利尊氏。
あくまで後醍醐天皇を立てるべく、和議を申し入れます。
後醍醐天皇もこれを受け入れ、光厳上皇の弟・光明天皇に三種の神器と天皇の位を譲り、やっと尊氏vs後醍醐天皇の争いは収束しました。
また、尊氏は征夷大将軍の地位を認められ【建武式目】を作り、室町幕府を創始します。

『洛中洛外図屏風』に描かれた花の御所こと室町殿/wikipediaより引用
厳密にいえば室町幕府という名前は後々つけられたものなのですが、後世からみるとここでそう呼んでしまっても差し支えないかと。
色々やりすぎたと思ったのか、このあたりで尊氏は清水寺にこんな起請文を出しています。
「この世は夢のようなものだし、私はもう世を捨てて山にでも入ってしまいたい。この世での栄誉は全て直義に与えてください」
現世に嫌気がさすのはわからなくもありませんが、ならば再起などせず九州で出家すればよかったのでは?というツッコミも……。
湊川の戦いを経て、急激に気分が変わったんでしょうか。
ともかく、一件落着したかに見えた情勢ですが、後醍醐天皇はまだ諦めていませんでした。
「この前渡した神器は偽物だから、まだワシが天皇だよ~ん!!」(※イメージです)
と言い張り、吉野へ逃げて南朝を作ってしまうのです。
天皇ともあろう方が、これはさすがに強引過ぎるでしょう。
ちなみに、湊川の戦いの前にはこんなやり取りがあったとされています。
楠木正成が
「陛下にいったん京都から逃げていただければ、尊氏を誘い込んで兵糧攻め&挟み撃ちできます」
と献策したのに対し
「天皇がそんなにしょっちゅう逃げられるか!」
という見栄っ張りで退けた……というのです。
それなのに一旦和議を結んだと見せかけて逃げたのですから、正成は後醍醐天皇の夢枕に立ってもいいくらいですね。
さらに後醍醐天皇は各地方に自分の皇子を派遣し、威光で各地の足利方を味方につけようと考えました。
しかし足利方もそこまで単純ではありません。
まずは北陸へ逃れていた新田義貞と、彼に庇護されていた後醍醐天皇の皇子恒良親王・尊良親王を攻略すべく、高師直の弟・師泰を派遣。

高師泰(歌川貞秀画)/wikipediaより引用
師泰は彼らのこもる越前・金ヶ崎城を攻め、恒良親王を捕縛し、尊良親王を自害に追い込みました。
義貞は生き延びましたが、越前藤島の戦いで討死。
再び西上した北畠顕家も、暦応元年(=延元三年・1338年)に和泉・石津で戦死し、さらにはその翌年、後醍醐天皇自身が崩御してしまいます。
その際、息子の後村上天皇に「北朝を絶対に許すな!」(超訳)と遺言していたため、その後もしばらく南朝と北朝の対立は続いていきます。
尊氏・直義は、さすがに良心の呵責があったのか、後醍醐天皇の供養を盛大に行いました。
後年には京都にお寺を築くため、大陸への貿易船を出して費用を賄っています。
後に築かれたお寺の名を取って「天龍寺船」と呼ばれているものです。
今度は弟・直義と史上最大の兄弟ゲンカへ
幕府を開いた足利尊氏は、弟・足利直義に政治を任せ、自分は軍事の最終決定権+αと名目上のリーダーとしての立場を守ろうとしました。
しかしこの構図は、やがて部下からの反感を買い、今度は【観応の擾乱】という悲劇に突入していきます。
元々は尊氏ではなく、重臣の高師直と直義の対立がきっかけだったのですが、これが根深いもので。
それぞれの価値観をまとめると
【直義】
「皇族や公家の立場を尊重し、荘園も認める」
【師直】
「天皇などハリボテで十分!土地は手柄を上げた武士に全て配るべき」
だいたいこんな感じで、平行線もいいところでした。
尊氏がどちらにつくか明確にしなかったことも、乱を長引かせる一因になっています。
そんな中で南朝方の楠木正行(正成の子)が旗揚げし、高師直がこれを討つと、師直はそのついでに直義も狙おうとしますが、さすがに尊氏が許しません。

かつて足利尊氏の肖像画とされ、近年、高師直だという説が根強くなった『守屋家旧蔵本騎馬武者像』/Wikipediaより引用
代わりに直義をいったん政務から遠ざけて、師直をなだめました。
鎌倉を任されていた息子・義詮を京都に呼び寄せ、直義の仕事を引き継がせつつ後見を師直にすることで、高氏一族を封じようと試みています。
師直としては直義から実権を奪えればそれで良いですし、主人の息子に逆らう気はなかったでしょう。
観応の擾乱で先に退場したのは師直ですが、そのぴったり一年後に直義も急死してしまいました。
詳しくは直義や観応の擾乱の記事で触れますが、「尊氏との戦に負けた直後」というのがなんとも怪しく、現代でも直義の死因については意見が割れています。
尊氏の視点で意地の悪い見方をすれば、
「弟も師直も幕府を作るまでは役に立ってくれたけど、争いの火種が続くぐらいなら、潰し合ってくれたほうが助かる。残った方は適当に始末しよう」
という流れでもおかしくなさそうですが、考えすぎですかね。
娘の鶴王を喪ってしまい……
直義が亡くなる直前、地元の上野に戻っていた新田義貞の息子・新田義興らが体制を立て直していました。
足利尊氏はこの動きに対し、次男の足利基氏を鎌倉に呼び、しばらく同道して新田軍を破っています。

足利基氏像(狩野洞春画)/wikipediaより引用
一方、上方にいた足利義詮のもとには足利直冬が迫っており、一度は京都を占領するほどでした。
義詮はいったん逃げた後、機を見計らって入京、同時期に尊氏も鎌倉から京都へ戻っています。
この辺の尊氏は、正室の間に生まれた息子二人を平等に扱っている感じがありますね。
それを察したのか、義詮と基氏はお互いを尊重して動くようになります。父と叔父から学んだのでしょう。
そして、この一連の騒動の後、尊氏は病気がちになっていきます。
既に40代後半でしたから、寄る年波もあったはず。
しかも文和二年(1353年)には娘の鶴王が病で亡くなってしまい、精神的なダメージを受けたと思われます。
尊氏は息子には多く恵まれたものの、娘は彼女一人しかおらず、政治的にも人の親としても大切にしていたはず。
鶴王の三回忌である文和四年(1355年)に従一位が追贈されているのですが、無位の女性にいきなりこのような高位が与えられるのは前代未聞のことでした。
尊氏夫妻のゴリ押しで実現したとされているのですが……尊氏は頃合いを見て、鶴王を年の合う皇族に入内させるつもりだったのでしょうか。
その場合、頼朝の娘たちと状況が被ってなんともいえない気持ちになります。
一方、この頃の九州には後醍醐天皇の皇子の一人・懐良親王が西征将軍として滞在しており、地元の武士・菊池氏が援護していました。
尊氏が亡くなる間際、西国の憂いはまだまだ残っていたともいえます。
そのため延文三年(1358年)には、自ら九州征伐に赴く意向を示しながら、病には勝てず亡くなってしまいました。
享年54。
まさに波乱に満ちた生涯でした。
◆
あくまで私見ながら、鎌倉・室町・江戸の三幕府をそれぞれ比較してみると、さまざまな面で
「創業者の方針・性格が幕府の性格を決める」
ように思えてきます。
自分の兄弟よりも妻の実家を信頼し、結果として嫡流を途絶えさせてしまった源頼朝。
よくわからん言動で周囲を翻弄し、後々のトラブルの種を残した足利尊氏。
健康に気を使って長生きし、後顧の憂いになる懸念点を自ら片付けていった徳川家康。
現代の我々も、特に尊氏の悪いクセから学べることは多いのかもしれません。
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【参考】
清水克行『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon)
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
国史大辞典
ほか





