北条義時

源平・鎌倉・室町

北条義時 史実の人物像は真っ黒!大河『鎌倉殿の13人』主役の生涯とは

鎌倉時代、およそ140年――。

大まかに区分するならば、こんな感じでしょうか。

【前期】
幕府創設~承久の乱
1185-1221年
36年間

【中期】
承久の乱~元寇
1221-1281年
60年間

【後期】
元寇後~討幕
1281-1333年
52年間

室町幕府や江戸幕府なら、将軍ごとに分けると時系列もわかりやすいですよね。

しかし鎌倉幕府はそうはいきません。

なんせ、源氏将軍が絶えた後は、摂家将軍やら皇族将軍が入れ代わり立ち代わりして、表舞台にほとんど出てこない。

【鎌倉幕府の将軍】
源頼朝 1192-1199年
源頼家 1202-1203年
③源実朝 1203-1219年
④藤原頼経 1226-1244年
⑤藤原頼嗣 1244-1252年
⑥宗尊親王 1252-1266年
⑦惟康親王 1266-1289年
⑧久明親王 1289-1308年
⑨守邦親王 1308-1333年

代わって主役級になるのが、本来はナンバー2であるはずの北条氏です。

幕府で一番エライはずの将軍を蚊帳の外にして台頭した同一族。

今回はその流れをガッツリ作った一人・北条義時の生涯と、【承久の乱】までに生じた数多のトラブルを見ていきましょう。

なお義時は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で小栗旬さんが演じる主人公になります。

【鎌倉幕府の執権】
北条時政 1203-1205年
②北条義時 1205-1224年
北条泰時 1224-1242年
④北条経時 1242-1246年
北条時頼 1246-1256年
北条長時 1256-1264年
⑦北条政村 1264-1268年
北条時宗 1268-1284年
北条貞時 1284-1301年
⑩北条師時 1301-1311年
⑪北条宗宣 1311-1312年
⑫北条煕時 1312-1315年
⑬北条基時 1315-1316年
北条高時 1316-1326年
⑮北条貞顕 1326-1326年
⑯北条守時 1326-1333年

 

北条義時が二代目となる「執権」とは?

まずは北条義時を一言でマトメてみます。

北条政子の弟で、鎌倉幕府における北条氏の立ち位置を決めた人】

こんな感じですかね。

義時は初代執権・北条時政の次男であり、執権とは、将軍を補佐するという名目で、北条氏が実権を握った役職でした。

北条時政ってどんな人? 頼朝も政子も時政なしでは歴史に名を残せず!?

続きを見る

鎌倉幕府に最初からあった役職ではなく、

政治の中枢である【政所】

御家人を管理する【侍所】

この2つのお役所の【別当(長官のこと)】を独占したのです。

厄介なのが、必ずしも北条一族で一番エライ人(得宗家)が就くわけじゃない――という点でしょうか。

途中から、執権職よりも得宗家のほうが権力を持っていたりします。

【ポイント】

執権=将軍の補佐と言いつつ実権No.1

次第に得宗家の方が偉くなる

では、執権の成り立ちに義時はどう関係しているのか?

彼の生涯を追いかけながら見ていきましょう。

 

石橋山の戦いで史料に初登場

北条義時が記録上に初めて登場したのは、源平の合戦こと【治承・寿永の乱】の緒戦【石橋山の戦い】です。

ここで源氏軍がボロ負けし、父の北条時政と義時は源頼朝の後を追いかけました。

源頼朝
源頼朝 史実の人物像に迫る!出生から鎌倉幕府の設立 死因まで53年の生涯

続きを見る

一方、義時の兄であり時政の長男である北条宗時は別ルートで逃げています。

こういうとき、一族が二手に分かれるのはよくある話。まとまって逃げたら、もし敵の追撃を受けたとき、家ごと滅ぶことも考えられる。そのリスクを軽減するんですね。

実際、この敗走の途中で宗時が亡くなり、義時が嫡男としての地位を得ました。

義時がこの時点で戦に出られる年齢になっていたことも、彼にとっては幸運だったでしょう。

もしも兄と歳が離れていて、頼朝存命中に戦にも政務にも関われないような少年だったとしたら、後の権力も手に入れられなかったはずです。

頼朝は安房に逃げ延びた後、上総・下総・武蔵など、関東の有力武士たちを味方につけるべく、家臣たちを使者として遣わします。

このとき、北条氏は甲斐・駿河で源氏系の武士の下へ行き、協力を取り付けたようです。

詳しい記録はないものの【富士川の戦い】の直前、頼朝から甲斐の武田信義(武田信玄の祖先)に対して、

「北条殿を道案内とし、早く黄瀬川あたりに来てもらいたい」

という手紙を書いていることから、北条氏がこの方面を担当していたと考えられています。

黄瀬川は、頼朝と源義経が初めて対面した場所としても有名ですね。

富士川の戦いで源氏と平氏が大激突!するかと思ったら大逃亡で平家株暴落

続きを見る

源義経
源義経 史実の人物像に迫る! 兄・頼朝とすれ違い続けた31年の儚き生涯

続きを見る

以降、源頼朝が征夷大将軍になるまでの間、義時は父とともに側近を務めています。

逆に言えば、この時期の個人的な功績は全くといっていいほどわかりません。

【寝所近辺祗候衆】(頼朝の寝所など、非常に近いところで仕える人々)の中で、義時が筆頭として扱われていますので、頼朝の信頼を得ていたことは間違いないでしょう。

 

まずは関東平定

富士川で平家軍を追い返した源氏軍は、ここで即座に西上……とはなりませんでした。

頼朝に協力した関東の武士たちが「まずは関東を平らげるべき」と強く主張したからです。

ついこの前まで流人だった頼朝は、命さえあれば再起することもできます。石橋山での敗北から安房への逃亡など、既にそれは証明されていました。

しかし、既に領地を持っている千葉氏などは、頼朝ほど身軽ではありません。

この時点ではまだまだ関東にも平家方の武士がおり、長期間留守にすれば、領地や一族を失いかねませんでした。そのため、頼朝は鎌倉を本拠として、関東平定を急ぐことになります。

義時が具体的に何かをしたという記録はありません。以前と同じように地道に日々働いて、頼朝の信頼を勝ち取っていったのでしょう。

なぜかというと、寿永3年=元暦元年(1184年)9月、頼朝の弟・源範頼が西国へ向かったときに、義時も従軍しているからです。

源範頼
源範頼(頼朝の弟)の不審死~兄弟で消されたのは義経だけじゃない

続きを見る

この出征は平家を直接討伐するものではなく、平家に協力的な立場だった九州の武士を源氏の勢力下に入れることが目的でした。

既に平家は都落ちしており、瀬戸内海エリアにいましたので、背後を塞ごうというわけです。

悪くいえば、とても地味な仕事。しかも、心情的に平家寄りな人々を相手にするのですから、源氏方にとっては不利なことが多い状況ですね。

兵糧や舟の手配はもちろん、源氏に味方してくれるように説得するなど、範頼だけでなく、同行した諸将にとってもなかなか厳しい時期だったと思われます。

頼朝もそれはよくわかっていて、範頼への手紙の中で、相手を懐柔するように伝えております。

「地元の人々の恨みを買わないように振る舞え」

「地元民をなだめて、彼らにとって有利なようにはからえ」

そういった手紙の宛名の中に、義時の名も出てきています。義時単独にあてたものではないにしろ、範頼軍の主要人物とみなされていたことは間違いなさそうです。

おそらくは、他の武将たちとともに、九州の武士を説得したり、物資の調達に走り回ったりしていたのでしょう。このあたりは想像の域を出ません。

 

壇ノ浦の戦いを経て

元暦二年二月にやっとその努力が実を結び、豊後や周防の人々から充分な舟や米を得ることができました。

これによって、範頼軍は動き回れるようになり、摂津から平家軍を攻める義経軍と協力して【屋島の戦い】ついで【壇ノ浦の戦い】に臨みます。

那須与一と屋島の戦い
屋島の戦いは那須与一『扇の的』が激アツ! 義経のムチャ振り豪腕で切り抜け

続きを見る

壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦い 開戦! 源氏vs平家の最終決戦はいかにして行われたか?

続きを見る

このときも華々しい逸話は義経のものでしたが、その前には範頼や義時らの下準備がかかせなかったのです。

義経が奥州藤原氏に討たれた後は、頼朝が同氏を討つ軍を起こした奥州合戦にも参加しています。

藤原泰衡
藤原泰衡と奥州藤原氏の滅亡ドタバタ劇 大河『鎌倉殿の13人』でも注目

続きを見る

ここでも武働きはしておらず、頼朝の近侍に徹していました。

頼朝も武士というより、政治家としての面が強く感じられますが、義時はさらにその傾向が強いですね。

さらに、建久元年(1190年)に、頼朝が後白河法皇との折衝のため上洛した際には、露払いの役をしています。

大天狗と称された後白河天皇(後白河法皇)若かりし頃を振り返ってみる

続きを見る

細かい経緯は不明ながら、このあたりから頼朝は義時を信頼しきっていたらしく、

「義時は必ず、我が子孫を支える存在になるだろう」

と言っていたとか。

後世の我々からすると、どんな顔をしていいやら。ある意味その通りになったし、真逆になったともいえます。

もうちょっとその“信頼”を実の弟たちにも分けておけば、鎌倉幕府における源氏将軍の血が途絶えることもなかったはず。

頼朝は都で元服していますので、摂関家が皇室に食い込む様子だとか、他の公家が娘を入内させて政治的立場を強くする様子を知っていたはずなのです。

なぜ気づかなかった?

政治力ハンパない頼朝でしたら、自分の妻・政子を通じ、北条氏が同じことを仕掛けてくる可能性を察知できたはずではないか。やはり人間、自分のことは意外とわからないもんでしょうか。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-, , ,