そこへ大庭景親があらわれ、トラブルを丸く収める――大河ドラマ『鎌倉殿の13人』序盤の見どころであり、景親を演じる俳優・國村隼(くにむら じゅん)さんがいかにも大物といった風格を漂わせていました。
注目すべきは、その武勇だけでなく、解決手腕でしょう。
祐親と時政の手打ちにあたって景親は、両者が納得すべく証文を残すように促しており、文書作成に関する知性を感じさせました。
では史実においては如何なる人物だったのか。
相模の大物武士である大庭景親の生涯を振り返ってみましょう。
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相模武士団の重鎮・大庭景親
相模国――現在神奈川県に位置するこの地方は、地理的にみると大きな特色がありました。
箱根の山です。
険しい山道は、坂東への入り口を閉ざす関。ここをものともせず登る相模武士こそ、天晴れ剛勇の持ち主でありました。
そんな相模武士を束ねた人物が大庭景親。
景親の本拠地がある相模国、特に東部は平安末期から源平の争いに翻弄されていました。
・鎌倉党(大庭氏や梶原氏)
・三浦氏
主な勢力は鎌倉党と三浦氏で、まずは平安末期における大庭氏の動向をまとめておきましょう。
保元元年(1156年)に発生したのが【保元の乱】。
このとき大庭氏は、源頼朝の父である源義朝に味方し、武功をあげました。
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3年後の平治元年(1159年)【平治の乱】では、義朝が敗死。
義朝に近かった三浦氏は、相模で劣勢に立たされ、一方の大庭氏は義朝と距離を取っていたため、平家に接近し、その被官となることに成功すると、相模で大きな権力を得ます。
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これを踏まえ『鎌倉殿の13人』序盤における相模武士の立場と言い分を見てみましょう。
和田氏や三浦党の立場とは
まずは三浦党からです。
三浦党
伊豆の伊東と北条がもめたのであれば、相模の大庭に取りなしを頼めば解決できると思っている。それだけ相手の立場を理解している。
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母・山内尼は源頼朝の乳母。心情的には頼朝寄りだが、家の立場を考えると大庭景親には逆らえない。
ドラマの中で和田義盛が短絡的に「平氏を倒す!」と言い張り、主人公である北条義時は疲れ果てておりました。
義盛があまりに短絡的で無茶苦茶に思えましたが、三浦氏が大庭氏に頭があがらないことを思えば、その氏族である和田氏も様々なトラブルに直面していたことは考えられます。
おそらく義盛が怒る「嫌な平家の奴ら」の中には大庭氏の関係者もいたのでしょう。
治承4年(1180年)歴史が動いた
治承4年(1180年)5月、時代が動きます。
以仁王の令旨が発せられ、源頼政と共に挙兵。
あっという間に鎮圧されますが、この直後の治承4年(1180年)8月、源頼朝も挙兵をします。
いわゆる【石橋山の戦い】ですね。
大庭氏は平家、三浦氏は源氏につきました。
なぜ三浦氏は源氏についたのか?
三浦氏は、劇中でも描かれるように、史実では相模の外にも姻戚関係がありました。
その相手先は、伊豆国の伊東氏、武蔵国の秩父氏、下総の千葉氏にまで及んでいます。
源頼朝の異母兄にあたる源義平の母は、三浦義明の娘であるという説も。つまり源氏の嫡流とも姻戚関係があったのですね。
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ドラマでも、こうした命運を分ける要素が、初回から散りばめられています。
源頼朝の挙兵後、相模の武士団は混沌とした状況に陥りました。
源平いずれかにつくか?
命と所領がかかっているため、まさしく混沌とした状態に陥る。
山内首藤経俊は、頼朝と関係が深いにも関わらず、石橋山の戦いでは矢を射かけてしまい、後に母が助命嘆願をしていました。
波多野氏も源氏と関わりが深いにもかかわらず、頼朝と対峙。
こうして相模の武士団は、血縁や地縁、利益、日頃の不満など、各一族の思惑によって去就が分かれ戦っていたのです。
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