仁田忠常

多くの御家人並ぶ場でもかなり頼朝に近い席次の仁田忠常/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

史実の仁田忠常は笑うに笑えない最期~鎌倉殿の13人ティモンディ高岸

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、早くから御家人として活躍している仁田忠常

お笑い芸人・ティモンディ高岸さんが演じ、大声で、時には泣き叫ぶ姿がどことなくファニーな雰囲気を醸し出していますが、いざ戦闘!という場面では恵まれた体格から見事な剣さばきを見せるなど中々存在感のある武士となっています。

しかし実は彼、史実では笑うに笑えない最期を迎えてしまいます。

部下たちの勘違いから一大騒動へと発展し、本人併せて次々に討たれてしまうのです。

しかも、佐藤二朗さん演じる比企能員の最期にも関わっているのですからなおのこと。

二人ともお笑い色の強い方ですので、死に方のギャップを考えると、放送直後はかなり話題になるかもしれません。

それは一体どんな場面になりそうなのか?

史実の仁田忠常の生涯を振り返りながら、見て参りましょう。

 

最古参の御家人・仁田忠常

仁田忠常の名字は「新田」や「日田」と書くこともあります。

父母の素性は不明で、伊豆国仁田郷(静岡県田方郡)の人だったこと、そして仁安二年(1167年)生まれだということは判明。

そこから幼少期の記録が飛んで、歴史に登場するのは治承四年(1180年)です。

【石橋山の戦い】において、頼朝に従っていたとされていて、御家人の中では最古参といってもいいでしょう。

源平の戦いこと【治承・寿永の乱】では、源範頼に従って九州に渡りました。

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奥州合戦にも参加していますが、いずれも個人の武勲というものは伝わっていません。

これまた詳細は不明ながら、頼朝からの信頼も厚かったとされています。

例えば文治三年(1187年)に忠常が大病を患ったとき、頼朝は自ら見舞ったほどですから、よほどの何かがあったのでしょう。

記録に残りにくい、日常の態度などが高く評価されたのかもしれません。

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富士の巻狩り

忠常個人の武勇伝といえるのは建久四年(1193年)。

【富士の巻狩り】でのことです。

このとき忠常は手負いの大猪を仕留めたとされています。

また【曾我兄弟の仇討ち】でお馴染み、曽我兄弟の兄・祐成を討ち取ったとも。

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やはり細かな人物像が浮かび上がるようなエピソードはないものの、おそらく”豪胆で力自慢な人”だったのでしょう。

ドラマでのティモンディ高岸さんも、そのイメージに近いですよね。

頼朝の跡を継いで二代将軍になった源頼家にも、忠常は信頼されていたようです。

頼家も腕力が強かったそうですので、親近感が湧いたのではないでしょうか。

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忠常の屋敷に出かけて小笠懸をしたり、頼家の嫡男・一幡の乳母父を忠常に任せたり。

 

富士山の人穴

建仁三年(1203年)6月に駿河へ狩りに出かけたときには、富士山の人穴(ひとあな)でのエピソードが残されています。

忠常が従者5人を連れて中に入っていくと、足元がずっと濡れていて、そのうち川のような流れになっていったそうで。おまけにコウモリがたくさんいて、実に進みづらかったとか。

いろいろ難儀しながらも、一行がしばらく進むと、その先に不思議な光が当たり、従者のうち4人が即座に死んでしまったのだそうです。なんじゃそれ、怖すぎ。

忠常もさぞ恐ろしかったでしょうが、穴へ入る前に頼家に賜った剣を川の中へ投げ込み、なんとか逃げおおせてきたのだとか。

その後、土地の老人が言うには

「浅間大菩薩のお住まいなので、みだりに立ち入るべきではなかった」

だそうで。

浅間大菩薩というのは、富士信仰=浅間信仰の中心となる神様で、コノハナサクヤヒメと同一視されることもあります。

つまりは「皇室の遠いご先祖様の住まいに土足で立ち入ってしまった」ということになるわけで、バチが当たるのもむべなるかなという感じなお話ですね。

そんなわけで、頭脳派というよりは剛の者といった印象の忠常。

思わぬところで滅びてしまうことになります。

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