つつじ(辻殿)

絵・小久ヒロ

源平・鎌倉・室町

史実のつつじ(辻殿)は公暁の母で頼家の正室?鎌倉殿の13人北香那

源頼朝の跡継ぎと言えば源頼家

ご存知、鎌倉幕府の二代目将軍であり、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、いささか出来の悪い人物として描かれています。

無理もない話かもしれません。

史実では頼朝の死後、鎌倉は御家人たちの権力闘争が始まり、とても経験未熟な若者に処理できるような事態ではありませんでした。

ある意味、頼家は犠牲者であり、そのことは頼家の妻選びにも顕れているかもしれません。

今回、注目したいのは、その一人・つつじ(辻殿)

頼家の正室か?とされる女性であり、また公暁の母でもありました。

公暁といえば、これまた何かと胸がザワザワする人物ですが、その母であるつつじ(辻殿)とは一体どんな女性だったのか?

生涯を振り返ってみましょう。

 

源頼家の正室は誰なのか?

史実における源頼家の正室は一体誰なのか?

つつじ(辻殿)か、せつ(若狭局)か、実は確定できません。

将軍職にある者の正室が不明というのも妙な感じがするかもしれませんが、他ならぬ頼家とその妻子が誅殺されたという事情に加え、さらには彼女たちの生まれ(背後にある力関係)も影響しています。

つつじが源氏の血を引き、せつが比企一族の出身――。

『鎌倉殿の13人』では、そうした血縁関係に着目しながら、頼家の女性関係をすべて浮かび上がらせるのではなく、つつじ(辻殿)とせつ(若狭局)に絞っていると考えられます。

本作では、頼朝や義経もそうでした。

史実では割と著名な側室も登場しないまま話が進められています。

彼女らを割愛しても、物語の大筋に変わりはないと判断されたのでしょう。

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では、つつじ(辻殿)の出自の注目です。

 

源氏に忠義を尽くした賀茂重長の娘

つつじ(辻殿)の父は、清和源氏の血を引く賀茂重長。

賀茂一族の武士たちは【保元の乱】と【平治の乱】で頼朝の父・源義朝に忠誠を誓い、数々の戦果をあげました。

治承5年(1181年)、この重長は【墨俣川の戦い】に源氏方で参陣し、討ち死にしています。

『鎌倉殿の13人』では義円が討ち死にする場面が描かれた戦いであり、重長はまさしく源氏に忠義を尽くした武士でした。

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つつじ(辻殿)は生年も不明。

父が討死する一歩手前、治承5年(1181年)の前には生まれていたと考えられ、寿永元年(1182年)生まれの頼家より年上ですね。

この父の血だけでも、つつじ(辻殿)はかなり重要な人物といえます。

では彼女の母は?

 

強弓伝説を持つ源為朝の外孫

つつじ(辻殿)の母は、伝説的な武人の娘でした。

その名も源為朝(ためとも)――。

頼朝にとっては叔父にあたり、戦場では他に並ぶないほどの強弓で知られていました。

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ただし、【保元の乱】において父・源為義とともに崇徳上皇方について敗れてしまうと、伊豆大島へ流刑。

その伊豆大島で国司に従わぬため討伐されたとされています。

『鎌倉殿の13人』では序盤に相模の武士・大庭景親が登場しましたが、彼には兄である大庭景義(景能とも)がいて、戦場で対峙した為朝の強弓を「あれこそ無双である」と語っていた記録があります。

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平家方について処刑された弟の景親とは異なり、大庭景義は古参の鎌倉御家人。

曽我事件】に関与し、岡崎義実と同時期に出家したとされる人物です。

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弓術を重視する坂東武者にとって、源為朝の名は伝説の勇者として鳴り響いていたことでしょう。

つつじ(辻殿)は、そんな武人の孫なわけです。

坂東武士の御家人一族より、由緒ある家柄の娘――両親ともに源氏の血を引くつつじ(辻殿)を、頼家の正室にしようと頼朝が考えても不思議はありません。

源氏の血こそ鎌倉殿に相応しい。そんな正当性を示すうえで、彼女は重要な選択と言えました。

 

源氏の血を引く娘を頼家の妻に

『鎌倉殿の13人』では第23回において、建久4年(1193年)富士の巻狩りが描かれました。

【曽我事件】と重なったこの行事、頼家が二代目鎌倉殿となることを示すものとされ、ドラマではこの回から金子大地さんが演じています。

そして第24回放送では、父の頼朝、母の政子と共に京都へ上洛した姿が描かれ、建久5年(1194年)13歳での場面では元服した姿となっています。

史実における頼家の元服はいつなのか?

実はこのことも確定していませんが、ともかくこのときの上洛で、頼朝は京都の朝廷に近づくため、様々な工作をしていました。

姉・大姫の入内を画策し、さらには自らの後継者が頼家であることを都で披露したと考えられます。

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ところが、です。

建久8年(1197年)7月に大姫が亡くなり、さらには後鳥羽天皇の譲位により数多の工作も頓挫。

頼朝にとっては逆風が吹く建久9年(1198年)、今度は一転、慶事が訪れます。

頼家最初の子、頼朝には初孫となる一幡が生まれたのです。

母は比企能員の娘・せつ(若狭局)。

頼家まだ17歳であり、逆算すると16歳の時にはせつ(若狭局)を側に置いていたことになります。

二人が結ばれた経緯は不明ながら、この一幡誕生の翌建久10年(正治元年・1199年)1月、頼朝が急死しています。

この時期には、つつじ(辻殿)も頼家の妻とされていたと考えられます。

そして翌正治2年(1200年)、つつじ(辻殿)は源頼家の第2子となる善哉(後の公暁)を産みました。

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