陳和卿

遣唐使船/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

史実の陳和卿が建造した船は由比ヶ浜で座礁した?鎌倉殿の13人テイ龍進

陰謀と粛清まみれの北条義時に愛想を尽かし、救いを求めるようにして後鳥羽上皇へ傾倒し始めた源実朝

いよいよ終盤を迎えた大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、そんな実朝の前に、非常に独特な人物が現れました。

陳和卿(ちんなけい)です。

俳優のテイ龍進さん演じる南宋人であり、本職は工人(職人)。

彼は、焼け落ちてしまった東大寺の修復や、実朝の命を受けての大船建造などを手がけ、“腕のよい職人”という評価を得ているのですが、一方でなんだか怪しくもある。

源実朝を相手に涙を流し「前世」などと語り始める――。

当時の感覚からすれば実朝がその存在を信じても不思議ではないのですが、意図的に騙すこともできるわけで、とにかく一筋縄ではいかない雰囲気を漂わせている。

いったい陳和卿とは、史実でどんな人物だったのか?

実朝との関係はどんなものだったのか?

その事績を振り返ってみましょう。

 

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宋の影響を吸収する鎌倉

いつ何処で生まれたのか――生没年が不詳なら、来日した年月日も正確には記録されてない陳和卿。

腕の良さだけは間違いなかったのでしょう。

東大寺大仏や大仏殿の再建に貢献しており、次第に鎌倉へ名を知られるようになりました。

実は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも序盤から登場していて、

「唐から来た」

源頼朝に注目されています。

「宋」ではなく「唐(から」と話したことに違和感を持たれた方もいらっしゃったでしょうか。

当時の中国王朝は「唐(とう)」ではないはずなのに、なぜ?

陳和卿の立ち位置を説明するためにも、当時の日中関係を少し確認しておきましょう。

頼朝に限らず『鎌倉殿の13人』の世界では、どの時代の中国王朝も「唐(から)」と呼びます。

例えば梶原景時も、春秋時代・斉の武将である王燭を「唐」と呼んでいましたが、そういう言い方が日本では普通であり、他にも、江戸期に流行した明代の書道家・文徴明や董其昌はまとめて「唐様」(からよう・中国風)と称されています。

2012年の大河ドラマ『平清盛』では、主人公の愛用する剣が「宋剣」と呼ばれていましたが、あれは例外と見てよいでしょう。

でも、なぜ「唐」なのか?

漢でも随でも宋でもなく、唐になったのは、それだけ遣唐使船による文化吸収のインパクトが大きかったから。

菅原道真の提言により同使節を取りやめて100年以上が経過していましたが、それでもなお唐(中国)の影響は大きいものでした。

唐が無くなった後も、日本との関係は続いていたからです。

では、頼朝や義時たちが活躍した12~13世紀はどうなっていたか?

項目別にいくつか見ておきましょう。

◆経済

12世紀前半に北宋が滅亡すると、日本にとっては大きな貿易の転換点を迎えました。

中国大陸北部にある鉱山が金国の支配下となり、南宋で貴金属需要が高まったのです。

日本からは「金、銀、水銀、硫黄、刀剣、木材、漆器」などを輸出する代わりに、さまざまな文物が流れ込みましたが、その中でも最大の目的だったのが【宋銭】です。

当時の貴族は「銭の病が蔓延している」と嘆いたほど宋銭が流通。

それに比例するように経済が加熱し、影響は坂東にまで及んでいます。

宋と元は、鎌倉幕府にとって重要な交易相手でした。

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◆宋磁

宋代の青磁と白磁は、日本でも熱狂的に受け入れられました。

宋代の磁器は、他に類を見ない特徴があります。

京都を含めた他の地域と比較しても、鎌倉近辺での発掘が圧倒的に多いのです。

御所や御家人の邸宅跡からのみならず、庶民が住んでいた地域からも発掘。

鎌倉の人々にとって宋磁を持つことはステータスシンボルでした。御家人からすれば、宋磁が無いと恥ずかしくて宴も開けないほど、普及していたのです。

◆鎌倉仏教

鎌倉で発達した仏教は、宋で学んだ栄西たちが発展させました。

最先端の教えが広められ、大仏や寺社仏閣もまた進歩してゆきます。

◆朱子学

朱子学とは、北宋の朱熹(しゅき)が確立した儒教の新たな思想です。

『鎌倉殿の13人』の時代ではなく、もう少し後に本格的に普及。室町時代から江戸時代にかけて、政治の理念の中枢にありました。

 

いかがでしょう?

日宋貿易がいかに鎌倉でも重要だったか、ご理解いただけるでしょうか。

実は鎌倉は少し特殊な土地でして。

幕府が興り、そして滅びた以降、政治の中心にならなかったせいか、宋の影響を受けたまま、まるで時が止まったかのような様相を見せたりします。

一例を挙げますと、宋磁です。

前述のように、当時、鎌倉で大流行した宋磁の破片が、今でも浜辺で見つかったりするのです。

では、そんな鎌倉と陳和卿は、どのような経緯で接点を持つに至ったのでしょうか?

 

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仏教復興のために渡海した陳和卿

日宋貿易が活発になると、中国で仏教を学びたい日本の僧侶も宋へ渡るようになりました。

当時は航海技術も発達。

日宋間で往復できるようになっていたため、三度も南宋を訪れた浄土宗の僧侶がいます。

重源(ちょうげん)です。

彼は源平合戦騒乱の中、清盛の命令によって焼け落ちてしまった東大寺の再建に尽力するのですが、このとき協力を求めた相手が陳和卿でした。

平重盛による【南都焼討】が起きたのが治承4年(1180年)12月28日のこと。

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現代の浙江省が出身地とされる陳和卿が、弟と共に来日を果たしたのは12世紀末とされます。

大仏殿の復興は、日本の国家的プロジェクトゆえ、重源の依頼を受けた陳和卿も、凄まじいプレッシャーにさらされたでしょう。

『鎌倉殿の13人』では、後白河法皇が死の間際、建久元年(1190年)に大仏殿再建を果たしたことを回想しています。

さほどに大々的な事業だったのです。

だからでしょう。鎌倉に新たな都を作る源頼朝が陳和卿との面会を希望するのは自然なことであり、そのチャンスは建久6年(1195年)に訪れました。

配下の者たちを連れ、上洛を果たした頼朝は、東大寺再建に尽力した陳和卿との面会を希望します。

しかし……。

「平家と戦った際に、多くの人を殺した。弟までも死に追いやった。そんな人間と会いたくはない」

そんな理由で将軍である頼朝が面会を断られたのです。

しかも、頼朝が陳和卿宛に届けた贈り物も、寺社造営や寄進に使えないものは全て返却するという徹底ぶり。

面会を断られた頼朝が落ち込む様子が『鎌倉殿の13人』でも描かれていたのを覚えていらっしゃるでしょうか。

このとき、陳和卿と対比されるようにして、頼朝からの贈り物を嬉々として受け取り、便宜を図る朝廷の人々も映されていました。

陳和卿の妥協を許さぬ織り目正しさは、頼朝にとって印象深かったことでしょう。

しかし、その後の陳和卿は、なかなか日本社会に馴染めなかったようです。他の寺社勢力の反発もあり、受け入れられなかったようで。

むしろ、その名は、鎌倉の歴史を記した『吾妻鏡』で印象的に登場します。

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