三浦義澄

三浦義澄/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

史実の三浦義澄は頼朝幕府のオールラウンダー鎌倉殿の13人佐藤B作

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狩衣の下に腹巻を装着

建久元年(1190年)にも頼朝が上洛。

御所へ入る際、頼朝の牛車の前を行く三騎の先頭を義澄が務めました。

武門としては相当誉れ高いことだったでしょう。

この後日、石清水八幡宮への参詣などにも随行していますが、このころ頼朝は、数十日間の滞在で8回も後白河法皇と会談しています。

実はこの二人、親密だったんですね……というワケでもありません。

『吾妻鏡』11月29日の記述では、後白河法皇への拝謁では、義澄を含めた12名の御家人が頼朝に随行したと記録されていて、そこに

「御家人たちは、みな密かに狩衣の下に腹巻を身に着けていた」

とも書かれているのです。現代でいえばさながら防弾チョッキですかね。当時の緊張した空気がうかがえます。

しかし、そんな心配も束の間、12月11日になると、頼朝の推挙で10名の御家人に官職が与えられました。

後白河法皇から「20人選べ」と言われたのを、憚って10名にしたとされています。

義澄もその一人に選ばれましたが、息子の三浦義村に譲り、さらには三浦義連も左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられています。

興味深いことに、このとき頼朝の実弟である源範頼は任官されていません。

このときの任官が後白河法皇の意向であり、頼朝の本意ではなかった可能性も考えられますね。

源義経という前例がある上、頼朝にとって数少ない血縁者をわざわざ法皇や朝廷に近づけたくなかったのでしょう。

ただし、源範頼は、頼朝が大納言に任じられた際の拝賀では先駆けを務めているため、決して軽んじられたわけでもありません。

頼朝が一族の統率に一層気を配っていたことがうかがえるのではないかと思います。

この任官の後、頼朝は鎌倉への帰路につきました。

 

武勇伝語りの会

建久二年(1191年)8月1日。

大庭景能(かげよし)の主催で宴会が催され、頼朝の命令で年配の御家人たちが武勇伝を語ることになりました。

義澄も参加しており、一体どんな話が聞けたのか?

というと、これが非常に緊迫する場面でした。

景能が戦った相手が、同時代最強の武士と目される源為朝だったからです。

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この時代の武士は弓馬、つまり弓術と馬術に優れた者が戦場で優位に立つことができ、その中でも源為朝は飛び抜けて屈強な肉体を持ち、非常に強い矢を放つことができました。

景能は、そんな弓の名手・為朝と対峙することになり、しかも互いに正面から矢を撃ち合いそうな場面になります。

互いの弓の威力を考えれば絶体絶命と言えましょう。

そこで景能は、馬を左へ急旋回。

死角を奪おうとするのですが、相手はさすがの最強武士ですからそう簡単にはいきません。

為朝は瞬時に向きを変えるや矢を放つ――と、景能の左膝を切り裂きました。

距離にして50m以上。

通常は10~20mとされる当時の射程範囲を大きく超えてくるものですから、為朝の凄まじい威力のほどがご理解できるでしょう。

そんなレジェンド武士と一騎打ち、しかも生き残ったのですから、それだけでも十分称賛に値するものだったようです。

景能は弓だけでなく馬術の大切さを若武者たちに説きました。

為朝は、頼朝にとっては叔父にあたります。

流刑になった伊豆大島でさらに反乱を起こして討伐軍に攻め込まれ、自害――とまぁ頼朝の前で話すネタでもない気がするのですが、景能の話を聞いた皆が感心し、頼朝も褒めていたそうなので問題はなかったのでしょう。

 

頼朝の命で相撲

建久二年(1191年)閏12月7日にも、頼朝が義澄邸を訪問、宴となりました。

このとき三浦義澄の息子・三浦義村や、甥・佐原景連など比較的若い世代の御家人が呼ばれ、頼朝の命で相撲を取ったそうです。

勝敗については書かれていませんので、褒美をかけた勝負というよりは、ちょっとした余興でしょうか。

頼朝と義澄の間には、単なる主従にとどまらない、良い意味での気安さがあったように感じられます。

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それがうかがえそうな出来事として、建久三年(1192年)7月の実朝誕生前後に注目したいと思います。

このとき、母である北条政子は名越の屋敷へ移っていて、7月24日に頼朝が屋敷を訪れた際は、義澄が接待をしました。

本来ならば政子の実家である北条氏が接待すべき場面。

それを義澄が行っているのです。

実はこのとき、頼朝には征夷大将軍の官職が与えられることになっていました。

名越で頼朝を接待した数日後、義澄は頼朝の代理として、鶴岡八幡宮で征夷大将軍の辞令を受け取っています。

比企能員など、他の重鎮を多く従えてのこの役目は、義澄が名実ともに御家人の筆頭格であることを示すものでした。

また、8月9日に無事実朝(さねとも)が誕生すると、二夜目の儀式は義澄が担当しました。

わずか半月ほどの間に何度も重要な役を任され、義澄も三浦一門も大忙しだったことでしょう。それ以上に晴れがましい気持ちも強かったに違いありません。

建久4年(1193年)5月に頼朝が行った【富士の巻狩り】にも義澄は参加しています。

この狩りは非常に規模の大きいもので、名のある御家人以外の武士も多く参加しており、人数は数え切れないほどでした。

しかも頼朝にとっては嬉しいことに、愛甲季隆(あいこうすえたか)という武士が巧みに追い込んだ「鹿」を息子の源頼家が射止めるのに成功。

政子にこれを報告したところ

「武士の子ならそのくらいできて当たり前です」

と呆れられたエピソードは割と有名かもしれません。

兄弟親戚を何人も葬ったせいか――頼朝にはどこどなく冷徹なイメージもありますが、こうして見ると時には家臣と楽しく遊び、息子には親バカっぷりを発揮し、なかなか人間臭い一面もあったのではないでしょうか。

ただしこれも、単なるレクレーションだけでなく、狩りや宴などを経て、息子・源頼家の側近を見繕っていた可能性も感じます。

愛甲氏は、武蔵七党と呼ばれる有力武士団の一員でした。

季隆は後に畠山重忠を討ち取ったり、和田合戦で和田方についたり、重要な事件でもたびたび登場。その彼が頼家の狩りに積極的ということは、有事の際にも頼りにできて喜ばしいことです。

頼家の狩りの成功については、政子への伝え方が悪かったのか。政子がその意図を受け取れなかったのか。理由は不明ですが、何らかのすれ違いがありそうですね。

また、この巻狩りの間に日本三大仇討ちの一つ・【曾我兄弟の仇討ち】があり、建久四年(1193年)5月29日に取り調べが行われました。

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この場にも、やはり義澄や北条時政などの重鎮衆が集まっています。

 

義時の息子に孫娘を嫁がせる

その後も頼朝が寺院に出かける際の随行として、義澄の名は頻繁に登場します。

江戸幕府でも似たようなことがいえますが、義澄のように戦場の最前線で活躍してきた武人が、平和な時代に適応するのは中々難しいもの。トラブルが頻発していないだけでも上々でしょう。

鎌倉幕府の御家人の場合、治承・寿永の乱以前から地元に根付いていた者が多いので、比較的やりやすかったのではないかとは思われます。

頼朝としても、三浦氏一門は子々孫々に至るまで幕府の中枢にいてもらいたい……という意向があったのではないでしょうか。

建久五年(1194年)二月に北条義時の息子・頼時(のちに北条泰時と改名)が元服し、この席に義澄を始めとした多くの御家人が参加していました。

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この席で、頼朝は義澄に

「頼時を婿にしてはどうか」

と勧めています。

これによって頼時(泰時)は最初の正室として、義澄の孫娘・矢部禅尼を娶ります。

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残念ながら建暦2年(1212年)頃までに離婚していたようで、北条氏と三浦氏のかすがいとはなりませんでしたが……。

少なくともこの時点での頼朝は、

妻の実家であり、次代以降の将軍の外戚である北条氏

三浦一帯を取り仕切り、一族も多く、揃って功績や忠義心に問題のない三浦氏

を幕府の両輪とみなしていたのではないでしょうか。

頼朝が三浦氏を一門衆の次にあたる立場とみなしていそうな出来事として、もう一つ挙げておきましょう。

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