北条時宗

北条時宗/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

元寇に勝利した八代目執権・北条時宗は他に何をした?34年の短い生涯

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時宗17才 元から服従を迫る文書を受け取る

この代替わりがあったためか、それまで良好な関係を築いていた将軍・宗尊親王が廃位され、京都に送還されました。

親王の正室・近衛宰子と、彼女の出産の際に護持僧を務めた良基という僧侶が密通したのがキッカケだとされていますが……ぶっちゃけイチャモンにしか見えません(´・ω・`)

この二人の間に生まれた惟康親王が、七代将軍になっていますしね。なんだかスッキリしない顛末です。

それから一段落した文永五年(1268年)正月。
時宗は17歳になりました。

ここで鎌倉幕府は、モンゴルの大帝国「元」から服従を迫る文書を受け取ります。

が、返事はしません。

朝廷としては「こんな感じで返事して」(超訳)という指示をしたかったようですが、鎌倉幕府は最初から「よろしい、ならば戦争だ」(※イメージです)と方針を決めていました。

文書を受け取って二ヶ月後に時宗が執権に就任していましたし、並行して幕府中枢では戦支度を始めているからです。

また、時宗にとっては心強いことに、政村がまだ存命中だったため、連署として後見役を務めました。

政村はその後政治的野心を出さず、文永の役の前年まで幕府を支えています。

 


合戦準備中に内輪揉め【二月騒動】起きる

こうして幕府は、各地の田畑に関する台帳を作って兵糧の準備をしたり、前線になるであろう九州の沿岸警備(異国警固番役)を強化したり、来るべき日に備えます。

元への返事を出さなかったのは、断固として服従を拒む意志を見せるとともに、曖昧な状態を長くしておくことで、準備のための時間を稼ぐのが目的だったのかもしれませんね。

が、その準備中に鎌倉幕府の内部でドンパチが起きてしまいます。

【二月騒動】と呼ばれる、北条氏の内紛です。

「外国が迫っているときに仲間割れしてる場合か!」とツッコミたくなりますが、そもそも歴史を辿れば、幕府の創設者・源氏からして……(´・ω・`)

二月騒動の中心になったとされるのは、時宗の庶兄である北条時輔です。

彼は六波羅探題南方を務めていました。

しかし、同職北方に就いていた北条時茂(二代執権・義時の孫/極楽寺流)が文永七年(1270年)に亡くなって以降、後任が来なかったため、京都では時輔の勢力が強まっていたのです。

さらに、得宗家への反発心が強かった北条教時(二代執権・義時の孫/名越流)という人が恨みをつのらせていました。

名越流は九州の守護職を多く務める家でしたが、かつて宮騒動の際に長兄・光時が伊豆に配流されていたことなどをきっかけとして、得宗家に恨みがあったようです。

また、教時は前将軍・宗尊親王の側近でもあったため、余計に得宗家に対する不満が溜まっていました。

彼らの謀反を事前に察知した……として、時宗が御内人(得宗家に仕えている武士)を派遣し、誅殺したといわれています。

が、無関係だった教時の兄・時章までブッコロしてしまっているあたり、どちらかというと謀反云々ではなく、

「元を相手に戦をしないといけないのに、身内の不穏分子をほっといたら何されるかわからん。いっそブッコロしてスッキリさせよう」

という考えのようにも思えますね。

あまりにもその死があっけなかったためか、時輔には生存説もあったようです。

大河ドラマ『北条時宗』では生存説を採用し、元との対立を平和的に解決するため暗躍する、という役回りになっていましたね。

源義経真田幸村など、生存説はだいたいヒロイックな話になりますが、大河ドラマでの時輔はなかなか特殊で斬新でした。

 


朝廷でも皇太子問題が……

こうして、内部の憂いがほぼなくなった鎌倉幕府でしたが……。

京都では別の問題を作り出すことになります。

この頃、鎌倉幕府にとっての前将軍・宗尊親王の父、後嵯峨法皇が崩御しました。

後嵯峨法皇には数多くの子女がおり、中宮生まれの皇子も二人成人していたため、皇位継承には問題ないかに思われたのですが……。

後嵯峨天皇/wikipediaより引用

後嵯峨法皇が、長子である後深草天皇よりも、次男である亀山天皇を何かとひいきし、次の皇太子を亀山天皇の皇子・世仁親王としてしまいました。

後深草天皇には、世仁親王より年長の皇子がいたにもかかわらず、です。

当然、後深草天皇は後嵯峨法皇を深く恨みました。

その恨みが解けないまま、後嵯峨法皇が崩御してしまったものですから、さあ大変。

しかも、世仁親王以降の皇位継承のことや、治天の君の座をどうするか、については「幕府に任せるからヨロシク^^」(※イメージです)と丸投げしただけで、何の意思も示しませんでした。

これには、朝廷も幕府も大いに困りました。

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