宝治合戦

宝治合戦の記述がある法華堂跡の石碑/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

三浦までもが北条に滅ぼされた宝治合戦が壮絶~鎌倉殿の13人その後の重大事件

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のクライマックスになるとされる【承久の乱】。

後鳥羽上皇の朝廷と、北条義時の幕府が衝突した朝幕対決は、幕府の勝利で幕を閉じます。

これで鎌倉幕府も安泰――とはならず、承久の乱からわずか26年後、今度は鎌倉幕府を二分しかねない大事件が勃発します。

宝治元年(1247年)6月5日、北条と三浦が衝突した【宝治合戦】です。

『鎌倉殿の13人』では、小栗旬さん演じる北条義時と、山本耕史さん演じる三浦義村は、盟友のような間柄。

さすがにこの両家は安泰では?

と、北条は確かに討幕まで存続するものの、三浦は違います。

北条泰時の孫・時頼と、頼朝の側近であった安達盛長の子・安達景盛が、三浦義村の子・泰村や光村らを排除する事件が起きてしまうのです。

凄惨極まりない結末を迎え、三浦一族が自害を遂げたあとは今も鎌倉にひっそりと残されています。

北条時頼・安達景盛
vs
三浦泰村・三浦光村

三浦義村はドラマの演出で賢いわけではありません。当時から「義村の八難六奇の謀略、不可思議の者か」とまで言われた人物。

それなのに、あるいはそれゆえか。あの義村の子孫が、なぜ北条と対立したとみなされ、さらに滅びてしまったのか。

その後の『鎌倉殿の13人』とでも言うべき争乱【宝治合戦】を振り返ってみましょう。

 


北条と三浦の微妙な関係

まず確認しておきたいのは、『鎌倉殿の13人』でも注目された北条と三浦の関係です。

北条時政三浦義澄

・北条義時と三浦義村

両家は、父子二代にわたっての親友関係だけでなく、時政と義澄は共に伊藤祐親の娘を妻に迎える、親戚の間柄でした。

しかも、です。

義時の子である北条泰時は、三浦義村の娘である初(矢部禅尼)を妻としており、両家の関係は盤石のようにも思えるでしょう。

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しかし、ことはそう単純でもありません。

もともと伊豆の北条と相模の三浦は、力関係においては、さして差のない一族でした。

いくつかのポイントから見ておきましょう。

◆河内源氏との姻戚関係

坂東では平安末期から河内源氏との関係が深く、三浦一族の女性は源義朝の妻となっています。

一方、北条一族は、義朝の息子である源頼朝の妻として北条政子がいました。

義朝に嫁ぐか、それとも頼朝か。

たった一代の違いだけで、大きな差がついてしまいました。

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◆頼朝の挙兵

頼朝が挙兵したとき、最初から付き従った点でも、北条と三浦は同じです。

そして双方に犠牲がありました。

北条時政の子・北条宗時は【石橋山の戦い】の敗走後に討死。

三浦一族の最長老である三浦義明は、義澄と義村たちを逃した後、外孫の畠山重忠に攻められ、城を枕に討たれています。

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つまり、戦功と犠牲に、両者は大差がありません。

ドラマにおいても三浦義村が、父・義澄に向かい苛立った態度を見せることがありました。

三浦と北条は同格だったはずが、どうしてこうも差がついているのか。

と、あのセリフにはそうした背景があったのですね。

また三浦には、一族内での事情もありました。

宗家の三浦義村を差し置いて、三浦一門を束ねる扱いをされていたのが、年上の従兄である和田義盛です。

和田義盛はもともと三浦義明の長男の息子ですが、その後の鎌倉政権においては国司就任をめぐり、北条ばかりが優遇されていると不満を募らせていました。

そして【和田合戦】が勃発。

義盛は、義時を相手に戦いを挑みましたが、義村の手引によって滅ぼされてしまいます。

さらに義村は【承久の乱】でも京都サイドに味方した弟の三浦胤義とは手を切り、北条の勝利に貢献。

義時の死後に起きた【伊賀の変】では、政子の説得を受けてまたもや北条に従いました。

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結果、北条泰時が執権となっています。

泰時は三浦一族出身の妻であった初(矢部禅尼)と離縁しながら、彼の代で北条と三浦の対立はありません。

三浦氏は代々評定衆を務め、御家人でも最大の勢力を誇っていたのです。

この段階では、北条と三浦が激突する要素は無いようにも感じられるでしょう。

しかし……。

 


泰時の孫・経時が4代執権に

古代中国の伝説的な名君・堯舜(ぎょう・しゅん)とまで喩えられた北条泰時。

彼は我が子に先立たれる不幸が相次ぎました。

まずは嘉禄3年(1227年)6月18日、二男・北条時実が家人の高橋次郎により突如殺害されました。

享年16。

突発的な犯行で、計画性はないものとされます。

それからわずか3年後の寛喜2年(1230年)6月18日――奇しくも弟と同じ日に、病に苦しんでいた長男の北条時氏が落命します。

享年28。

北条泰時は、時氏の子である孫たちを育て、跡継ぎとすることにしました。そして……。

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