源平合戦の水上戦闘

元寇時の水上戦を描いた日本と元の将兵たち/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

義経が水上戦で活躍できたのは三浦一族がいたから 鎌倉殿の13人考察

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義経を支えた三浦一族の水軍
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手で漕ぎ、弓矢で射る

戦闘用の船――というと、実は漁船とあまり変わらぬ素朴なものでした。

「準構造船」という丸木舟の上に構造物をつけたもので、弥生時代から用いられていたものです。

30メートルを超えるような大型のものですと、底をついだ「複材(または複合)刳船(くりぶね)」の出番でした。

いずれにせよ、日宋貿易船が当時最先端の技術が用いられたのに対し、戦闘用はかなり素朴な設計です。

源平合戦における水上戦闘は、馬が船になったと考えるとわかりやすいかもしれません。

小型の船に武士が乗り、漕ぎ手が動かす。

速度は4ノット程と推測。

「1ノット=時速1.852km」で計算しますと、約7.4kmになりますね。

現在の高速船は40ノット(時速74km)ものスピードとされているので、それと比較すると10分の1。当時は時速7.4キロが平均速度でした。

また、粗末な帆を張ることもありましたが、基本は安定かつ確実な人力が用いられています。

再び【石橋山の戦い】での敗戦後に目を向けますと――。

 

水上戦の基本は弓と長刀

吾妻鏡』によると、8月28日早朝に頼朝一向は真鶴から出航。

現在千葉県安房郡鋸南町竜島にある上陸地に到着したのは翌8月29日のことでした。

GoogleMapの直線距離では約63kmとなりますので、時速7.4kmで進めたとすれば、約9時間で到着することとなります。

おそらくや交代しながら一日中漕ぎ続け、疲労困憊の極みだったでしょう。ドラマにおける頼朝(大泉洋さん)の疲れ切った顔が理解できますね。

この時代の船は、砲撃して船ごと沈めるような戦術・武器はありません。

接近しながら弓で射る

乗り移って倒す(移乗攻撃または接舷攻撃)

といった戦術が基本となります。

船には

①漕ぎ手
②遠距離攻撃をする射手
③とどめを刺す長刀で武装した者

がセットで乗っていました。

元寇時の水上戦を描いた日本と元の将兵たち/wikipediaより引用

熊手を使い船を引き寄せる動きは、この時代において特徴的なものでした。

戦闘員は遠距離を担う射手と、接近戦でとどめをさす長刀装備のものがいます。

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