保元の乱

保元・平治の乱合戦図屏風/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

保元の乱はまるで平安時代の関ヶ原! 対立関係を把握すればスッキリ

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例えばこの時期も複数の内ゲバ(内輪揉め)を起こしています。

西では源為義の末子・源為朝が暴れて為義が解官され、東では源義朝の子・源義平が叔父・源義賢に攻めこんでおり、義賢に援助すべく弟の源頼賢が関東に下るというメチャクチャぶりでした。

これも長くなるので、それぞれの詳細については過去記事へどうぞ。

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こんなことばっかりしてるから後々北条氏に乗っ取られるんや(´・ω・`)

 

【摂関家(藤原氏)内の対立】

朝廷と源平――。

さらにそこへ絡んでくるのが、藤原氏の摂関家。摂政・関白を輩出する、藤原家の中でも名門とされる一族です。

が、実は彼ら、院政前後から落ち目でした。

摂関家を直接外戚に持たない(血のつながりが薄い)後三条天皇の時代から、天皇や上皇等による政治が始まったのですね。

後三条天皇
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彼らにとって頼るべきは【摂関の座】。

権力を再びこの手に!というわけで結束すればよいのに、藤原氏の中でも対立構造が起きてしまいます。

このころ藤原氏にとっては幸いなことに、藤原忠実の娘・泰子(高陽院)が鳥羽法皇の妃として入っており、希望はありました。

一方で、ときの関白・藤原忠通は男子に恵まれず、異母弟の頼長を養子とし、跡を継がせることにします。

そこで、超ありがちな問題が起きます。

忠通に実子(基実)が生まれてしまい、忠通は弟の頼長ではなく我が子に直接家督と摂関の座を譲りたがるのです。

弟よりも息子。しかも異母弟ですから、特に対立しやすい構造でした。

これによって、摂関家の中でも

藤原忠通(兄)
vs
藤原忠実(父)&頼長(弟)

という構図ができた。

両派とも自分の養女を入内・立后を狙い、対立は深まる一方です。

そして久安六年(1150年)9月、忠実が実力行使に出ました。

藤氏長者(藤原氏全体の当主)に伝わる宝物を、屋敷ごと忠通から取り上げて頼長に与えたばかりか、忠通を勘当してしまったのです。

当然、治天の君(権力者)である鳥羽法皇のところへ苦情が行きますが、鳥羽法皇は「忠通は関白に、頼長は内覧に」というワケワカメな対処をします。

関白は成人した天皇の相談役、内覧は天皇に提出される書類にあらかじめ目を通す役職です。当然、関白と内覧には仕事が被る面があるため、同時に置かれることはまずありませんでした。

つまり、仲裁を頼んだつもりが余計こじれてしまった……というわけです。

どうしてこうなった/(^o^)\

 

流れで後白河天皇の誕生

・皇室
・摂関
・源平

こうした3つの勢力の中で、権力争いが複雑に絡み合う中、事態はにわかに動き始めます。

崇徳上皇の弟である近衛天皇が久寿二年(1155年)に崩御したのです。

近衛天皇には実子がおらず、鳥羽法皇の寵妃・美福門院の養子となっていた二人の親王のドチラかが次代の天皇と目されておりました。

一人目は崇徳上皇の皇子・重仁親王。

もう一人が崇徳上皇の弟かつ近衛天皇の兄である雅仁親王の皇子・守仁親王です。

最終的には、後者が選ばれるのですが、

「父の雅仁親王が存命中なのに、世代をすっ飛ばして子の守仁親王というのはどうなのよ?」

ということで、中継ぎのような形で雅仁親王が即位します。

雅仁親王こそが後白河天皇なのです。

後白河法皇
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この一連の流れには、後白河天皇の乳父・信西と、摂関家の藤原忠通が関わっていたとされます。

これまた俗説なのですが、鳥羽法皇や美福門院は、「藤原頼長が近衛天皇に呪詛をかけて殺したのだ」と信じ込んでいたのだとか。

頼長はあらゆる意味で赤裸々な日記「台記」で有名な人であり、その他にも敵を作りやすいタイプだった上、この頃は崇徳上皇に近づいていました。こういうとき、日頃の行いが響いてきますね……。

一方、崇徳上皇からすると、弟が二人続けて即位したことになるわけです。

これでは院政ができませんし、自分の皇子が即位できない=自分の血統が皇室に残らなくなってしまったことにもなります。

それまで崇徳上皇は、鳥羽法皇から受けていた冷遇に対する不満を、和歌などの芸術に打ち込むことでどうにかやり過ごしていたが、さすがにこれは自分でうまく昇華できなかったようです。

また、この頃に【久寿の飢饉】が起きており、周辺地域から仕事や食料を求めて京に入ってくる流民が多く、政争とは関係ない一般人にも暗い雰囲気が漂っていました。

当時の感覚では「天災が起きるのは帝に問題があるからだ」という受け止められ方をしますから、乱の一因にもなったでしょう。

 

鳥羽法皇が病に倒れ、にわかに事態は動き出す

相も変わらず続く不穏な情勢。

保元元年(1156年)5月、ある意味、諸悪の根源である鳥羽法皇が病によって重篤な状態になりました。

権力争いに敗れつつあり、不満を抱く崇徳上皇や藤原頼長。

彼らの不満を押さえ込めたのは、治天の君である鳥羽法皇の力が大きかっただけに、法皇が重体となるや、たちまち死後に備えた動きが始まります。

法皇自身もそれはわかっております。

北面武士を務めていた源為義・平清盛などに味方につくよう諭しておりました。ただ、源為義は、藤原忠実や藤原頼長に近かったので、最終的には崇徳上皇方につくのですが……。

いよいよ危篤という7月初頭になると、崇徳上皇は鳥羽法皇のお見舞いに向かいました。

おそらくや生きているうちに和解したかったのでしょう。

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