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【伊賀の方と伊賀氏の変】
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重忠の死
北条義時にとっては長い付き合いのある妹婿であり、誠実な武士として知られた畠山重忠。
「坂東武者の鑑」とも評される重忠を討ち取ったのは、他ならぬ義時です。
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父・北条時政と義母・牧の方(りく)の命令で、仕方なく重忠を征伐した義時は、その首を前にして涙が止まらなかったと記録されています。
伊賀の方(のえ)が男児・北条政村を産んだのが、その日のことです。
畠山重忠の一件とは直接関係のない出来事でしたが、何やら不吉めいた誕生日ではあったかもしれません。
この誕生から逆算して、元久元年(1204年)には、義時と伊賀の方が再婚していたことがわかります。
比企一族である姫の前が、新しい夫との間に子を産んだのが元久元年(1204年)で、翌年に重忠が討たれるなど、義時に平穏な日々は訪れてないこともわかります。
4年後の承元2年(1208年)には、夫妻にとって二人目の男子・北条実泰も生まれました。
義時には生母不明の娘が複数いますが、そのうち一人あるいは複数名が伊賀の方の娘である可能性があります。
そんな伊賀の方が歴史において存在感を見せるのは、夫・義時の死後のことでした。
義時の死
元仁元年(1224年)6月13日に北条義時が死没。
享年62ですから、当時としては長生きの部類でしょう。
最後は何らかの病に伏せっていた可能性が指摘されます。
しかし、それまで数多の政争・争乱を生き抜いてきたせいか、義時の死について京都では、
・毒殺説
・刺殺説
・怨霊による祟り
といった風聞が流布。
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残された現実問題は、跡継ぎでした。
後継者争いを発端として、数多の御家人たちが討ち取られてきたのを散々目にしてきたにも関わらず、義時自身が三代目執権を明瞭に定めていなかったようなのです。
ゆえに揉めます。
義時には、以下のように生母の異なる男子が複数名いました。
義時の死後、伊賀の方は我が子である北条政村を執権にしようと画策しました。
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唯一存命していた正室ですから、当然のことでしょう。
彼女は、息子の政村を執権にした上で、将軍には、義時と伊賀の方夫妻の娘婿にあたる一条実雅を据え置く――そんな体制を伊賀一族と共に実現しようとしたのです。
それが【伊賀氏の変】の始まりでした。
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