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【源頼朝】
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清盛が死んでいた もう戦う理由がない!?
年が明けて養和元年(1181年)、源頼朝は再び平家との戦を始めます。
なんて言うと、いかにも快進撃が行われたかのように思われるかもしれませんが、墨俣川の戦いでは源氏軍が敗れるなど、そう簡単でもありませんでした。
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そういう事情もあってか、この年、頼朝から後白河法皇宛に
「朝廷に対して謀反を起こす気はないですし、平氏と和睦しても構いません」
なんて書状も送られています。
『えっ、ここまで大規模に兵を挙げたのに、自分から引き下がっちゃうの?』
そうツッコミたくなった方もおられるでしょうか。
実は、墨俣川の戦いからおよそ一ヶ月前のこと。平清盛が病死していたのでした。
頼朝にとってこの戦いは、父の仇である清盛を討つことが最大の目的でした。
清盛がいなくなってしまえば、半分以上意味が薄れてしまいます。むしろ、朝敵にされるおそれがありました。
ですので、もしも平家側に、頼朝とタメを張れるレベルの政治能力を持った人がいれば、その方向で動いたでしょう。
一方、平家から見た頼朝は「せっかく命を助けて公平に裁いてやったのに、脱出して兵を挙げるとは不届き千万! 法の下に討ち果たさねば!」となります。
清盛の後継者となった平宗盛が、清盛の遺言を盾に和睦を受け入れなかったのも、おそらくはこのような考えだったのでしょう。
最終的に平家が負けること、それまでの世間の評判がよくなかったことなどで、ついつい「平家が完全に悪者」と思ってしまいがちですが、当時の状況では頼朝のほうに非があるとみられてもおかしくはありません。
ともかく平和的な解決は不可能となりました。
なぜ義仲と仲違いしてしまったのか
各地に散っていた源頼朝以外の源氏武士も挙兵、徐々に京へ近づきます。
有名なところでは頼朝のイトコ・源義仲(木曽義仲)ですね。
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ここで、墨俣川の戦いで敗北した頼朝の叔父・源行家を義仲がかばい、頼朝と義仲は一時険悪になります。
すわ源氏お得意の内輪揉めか!
と思われたものの、まずは平家を片付けることが優先され、このときは和議が成立しました。やればできるやん。
まぁ、河内源氏(清和源氏)の場合、「やろうともしない」ケースのほうが多い気がしますが(´・ω・`)
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ちなみに和議の条件は「義仲の嫡子・木曽義高を、頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に送る」というものでした。
事実上の人質ですけれども、義高と大姫は年が近く、この頃はまだ双方ともに年齢ひとケタの幼児でしたので、うまくいく可能性もあったでしょう。
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頼朝としては、「既に乱暴者になってしまっている義仲を説得するより、幼い義高を従順に育てるほうがいい」と思えたのかもしれません。
しかし、義仲は京都に入るなり後白河法皇と対立し、源氏の立場を危うくしてしまいます。
「これはまずい」と考えた頼朝は、後白河法皇に接近して東国の支配権を認めてもらい、義仲の失脚を図りました。
当然、義仲からすれば頭にくる話です。
そこで義仲は後白河法皇を幽閉するという強行をしたために、かえって立場を悪くしてしまいます。
結果、頼朝の弟たち(義仲にとってもイトコ)である源範頼・源義経に討たれてしまいました。
おそらく頼朝としては、範頼・義経双方に「身内でも、下手を打てば容赦しないからな」という含みを持たせたつもりだったのかもしれません。
屋島の戦いから程なくして壇ノ浦の戦いへ
その間に、平家は都から落ち延び、清盛の隠居所だった福原などに逃げます。
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当然、兵力は回復。
木曽義仲との内輪揉めがなければ、もっと早く源平の決着があったでしょうから、壇ノ浦ではなく福原近辺が平家最後の地になっていたかもしれません。
範頼・義経は、一ノ谷の戦いで平家に勝利し、さらに西へと彼らを追い詰めて参ります。
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そのまま追撃するか?
と思いきや、京都の治安回復と兵糧や軍船の用意などのため、次の屋島の戦いまでは半年ほど間がいております。
この「戦と戦の間隔の長さ」が、源平の合戦「治承・寿永の乱」をわかりにくくしている気がします。
いざ体制が整うと、源頼朝は改めて範頼を平氏追討の総大将とし、西へ向かわせます。
義経はこのころ勝手に検非違使・左衛門尉の任官を受け、頼朝の怒りを買っていました。
ただ、このときには処罰はされません。「まずは平家を」ということで保留され、範頼と共に屋島の戦いに臨み、勝利を収めています。
そして、屋島の戦いから一ヶ月半程後に、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させたのでした。
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頼朝は平家打倒を成し遂げた功績で、従二位という高い位を授かっています。
従三位以上は「公卿」と呼ばれ、特別にエライと見なされる立場。家柄によっては清涼殿(天皇の日常生活の場)・殿上の間に上がることもできました。
元々朝廷にパイプがあった頼朝としては、これでようやく返り咲いたように思えたかもしれません。
義経にも後白河法皇にも容赦なく綱紀粛正を
最大の敵・平家を滅ぼした源頼朝は、次に内部の綱紀粛正に取り組まねばなりませんでした。
そこでまず問題になるのが末弟・源義経。
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上記の通り、平家が片付く前から義経の行動には問題が多々ありましたから、あまり放置しておくと東国武士が分裂しかねません。
そこで始まるのが河内源氏お約束の内輪揉めパターンです
頼朝が義経に刺客を送り、義経が行家と組んで後白河法皇から「頼朝追討の院宣」をもぎとり、いよいよ大合戦か!というところで、義経の下には兵が集まらず、都を出ていかざるを得なくなります。
頼朝は後白河法皇にも容赦はありませんでした。
「兄弟の離間ついでに、法皇が独裁を企んでいる」と考え、舅である北条時政に大軍を率いて京へ向かうよう命じるのです。いわば脅しですね。
後白河法皇は保元の乱以降ずっと戦乱を見てきていますし、自分も義仲に襲われたことがありますから、武士の恐ろしさは身にしみてわかっています。
実際、アッサリと屈し、頼朝追討の院宣を撤回して、逆に義経追討の院宣を頼朝に出します。もうワケワカメ。
しかし、頼朝はそんなことではごまかされません。
あくまで後白河法皇の責任を追及し、政治的ないくつかの要求をしました。
その中には
などが含まれていました。
要約すると「アンタと義経に手は組ませないし、独裁なんてもっての他だからな^^」と脅したことになりますね。
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