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【源頼朝】
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奥州藤原氏は義経を切り捨て、自分たちも滅ぼされ
源頼朝は、義経追討と各地の武士の反乱防止を兼ねて、全国へ守護・地頭を設置する許可も求めました。
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これを鎌倉幕府の成立と同義に捉える向きもありますが、そうすると他の幕府成立との整合性が微妙になってきます。
室町幕府成立は支配権が確定した足利義満あたりの時期になってしまいますし、江戸幕府に至っては、秀吉が亡くなってしばらくして家康が実質的な支配者になったあたりで成立したとも考えられてしまいます。
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まぁ、土地の制度がかなり変わってはおりますが、だからこそ守護地頭の設置を幕府成立の尺度にするのは難しいともいえますね。
ですのでやはり、従来の「幕府の成立は、征夷大将軍が任じられた時点」と考えるのが良いのではないでしょうか。もはやテストには出ないでしょうけど。
この間、義経は古巣である奥州藤原氏の元に逃げ延びていました。頼朝はもちろん圧力をかけ、義経を差し出すように迫ります。
奥州藤原氏の内部でも意見が割れながら、最終的に当主である藤原泰衡は義経を切り捨てるのです。
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泰衡にとっては保身のためにしたことでした。
が、頼朝は最初から奥州藤原氏を残すつもりはなかったでしょう。
雪の難があるとはいえ、京都や西国に比べれば、奥州は鎌倉と近いところです。
新しい政権を作ろうとしているのに、近所に既存の大勢力があってはたまりません。
そこで頼朝は「俺は弟を差し出せとは言ったけど、殺せとは言ってない! これじゃウチで裁けないだろ!」ということにし、奥州藤原氏を滅ぼします。
かくして頼朝の支配地域は拡大するのです。
右近衛大将を経て征夷大将軍に就任
源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしてから、後白河法皇の求めに応じて上洛し、対面しています。
そして権大納言・右近衛大将の官職を得ました。
ここではまだ、征夷大将軍になっていないところがミソです。その不満からか、権大納言・右近衛大将の職は早々に辞してしまっています。
ちなみに右近衛大将は公家が就く名誉職みたいなものでしたが、足利義満や足利義教などの足利将軍や、その後には織田信長も任官しておりました。
頼朝の就任経歴により武家にとっては最高権力者への一つの勲章になっていますね。
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閑話休題。
この頃の頼朝は、後白河法皇の孫である後鳥羽天皇との関係を重視し始めたようで、長女・大姫の入内を考え、渡りをつけ始めました。
そして建久三年(1192年)3月に後白河法皇が薨去すると、同年7月、後鳥羽天皇によって頼朝に征夷大将軍の官職が与えられました。
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元々、征夷大将軍は書いて字のごとく、「夷(えびす)=朝廷の支配に従わない者を討つ」のが役目です。
頼朝は既に奥州藤原氏を滅ぼしていましたから、実質的な仕事はない名誉職といっても過言ではありません。
朝廷としては「東国のことはお前に任せるからよろしく^^ 父祖の地もそっちだし別にいいだろ?」という感じだったんですかね。
悲しすぎる弟・範頼の終わり方
その後は御家人らの反抗はほぼありませんでしたが、建久四年(1193年)5月に富士山で巻狩(四方から獣を追い込む狩りの方法)を行った際、思わぬトラブルが起こります。
御家人の一人・工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちにより殺され、これがなぜか「頼朝が討たれた」という誤報となり、鎌倉に伝わってしまったのです。
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当然、妻である北条政子は動揺します。
それに対し、留守を預かっていた源範頼が一言。
「私がおりますので、源氏は安泰ですよ」
これはもちろん意訳ですが、政子にとっては悪い方の意味で強く感じられたようです。
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『コイツ、兄である頼朝殿を殺して自分が征夷大将軍になろうとしているのでは?』
無事に帰ってきた源頼朝に対し、政子はこのことを伝えました。頼朝も、政子と同じように感じたようです。
かくして、これまで頼朝に忠実だった範頼に謀反の疑いがかけられ、伊豆へ流された後、不審死を遂げることになります。
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ここで範頼と腹を割って話し、改めて忠誠を誓わせて息子たちの後ろ盾になれと命じていれば、頼朝の血筋はもう少し続いていたかもしれません。
怪しすぎるその最期 吾妻鏡でも触れられず
この件をはじめとして、晩年の源頼朝には「ゑっ?」という点が目立つようになります。
源平の合戦や義仲・義経の始末、奥州合戦で心身の力を使い果たしてしまったかのように、彼の判断内容やそのタイミングに「?」が浮かぶのです。
例えば、娘・大姫が義高を慕い続け、以前から他の結婚を進めても「私は結婚なんてしたくありません!」と言い続けているのに入内工作を進め、それが成功する前に大姫自身が亡くなってしまいます。
また、これまで朝廷での後ろ盾になっていた九条兼実が失脚し、頼朝の朝廷に対する影響力が薄れてしまっています。
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別の人にも渡りをつけていればよかった話なのですが、それも見受けられません(失敗しただけかもしれませんが)。
さすがに御家人統率についてのポカはないものの、これまでの頼朝に政治的な失敗がほとんどないだけに、晩年についてはなんだかおかしいのです。
次女・三万の入内を計画し、女御宣下まではいったものの、実現する前の建久10年(1199年)1月13日、頼朝自身が亡くなってしまいました。
享年53。
その死因は現代に至るまで不明で、諸説入り乱れています。
武家に関する日本史上の謎としては、本能寺の変と同じくらい不明瞭なところが多いその死。
鎌倉時代の代表的資料『吾妻鏡』ですら、頼朝の死どころか葬儀のことさえ書いておりません。なんだかアヤシイかほりがプンプンしますよね。
そんなわけでどうにもオチが締まらないのですが、頼朝の視点を知った上で、義仲や義経のことも見ていくと、また違った印象を持つのではないかと思います。
これまた歴史の醍醐味でしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝 (日本語)』(→amazon)
山本幸司『頼朝の天下草創 (日本の歴史)』(→amazon)
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon)
源頼朝/wikipedia