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【平清盛】
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高倉天皇の即位
まず、平清盛が病で倒れました。
「寸白(すばく)」と呼ばれる寄生虫病だったらしく、本人の申告ではサナダムシだったとか。
病気になったら出家するのが当時のスタンダードですので、清盛もこれを機に頭を丸めています。
しかし、政治の中心にあった人物がいきなり交代してしまっては、世間への影響が大きすぎます。
九条兼実の日記『玉葉』でも、
「清盛がいなくなってしまったら、国はいよいよ衰亡してしまうだろう」
と書かれており、個人的な感情はともかく、清盛が”国家の柱”として認識されていたことがわかります。
これに対し、後白河上皇は六条天皇から憲仁親王(高倉天皇)への譲位を早めて、影響を最低限に抑えようとしました。
少しややこしいので、補足しておきますと……。。
六条天皇の実母は身分が低く、後見役が心もとない状況でした。
二条天皇の中宮・藤原育子が養母として六条天皇を支えていましたが、清盛の義妹である滋子を母に持ち、平家の全面的な支援を受けやすい憲仁親王と比べると、その差は歴然。
また、後白河上皇からすると、六条天皇は孫で、憲仁親王は息子です。
どちらであっても院政を続けられるため、上皇から見ると「より基盤の安定した者を位につけておいたほうが、結果的に自分も助かる」ということに……。
と、こうして即位したのが高倉天皇だったのです。
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幸い、清盛の病気はしばらくして良くなりました。
しかしそれからは、政治の表舞台よりも、平家の隆盛に向けて動き始めます。
福原に雪見御所という別荘を作り、ここを拠点として、厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に励むのです。
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これには、仁安3年に起きたとある騒動が絡んでいたかもしれません。
同年11月、平家一門の平頼盛・平保盛が解官されてしまったのです。
宮中の重要行事のひとつ”五節舞”を演じる女性(舞姫)の手配ができなかったため、そのお咎めを受けての解官でした。
五節舞は、宮中行事の中で唯一女性が舞人を務めるもの。当然、舞姫を出す家にとっては大変な名誉となりますが、その分お金もかかります。
また、頼盛・保盛彼らは滋子が入内する際の奉仕も怠っていたため、ついに後白河上皇のカミナリが落ちたのでした。
さらにこの時期には重盛も病みついており、次世代への不安を感じていたでしょう。
清盛が神頼みと経済基盤の拡充に動いたのも、自然な流れといえそうです。
「平家にあらずんば人にあらず」
不穏な出来事は、次第に平家以外のところへも現れてきます。
仁安3年12月21日には伊勢神宮の正殿が焼失。
仁安4年正月からその再建が始まりますすが、直後の2月5日、今度は比叡山で横川の中堂が全焼してしまいました。
当時の価値観では、火事を含めた災害は不吉の象徴です。
不穏なものを感じた後白河上皇は出家を決意し、正月から3月にかけて熊野や賀茂・高野山に詣でて、神仏に出家の暇乞いをしました。
平清盛もこれに同調する動きを見せます。
3月には高野山帰りの後白河上皇を福原で迎え、千人もの僧侶を呼んで法華経の供養をしました。
同年6月に上皇が出家する際も、清盛はともに東大寺で授戒し、協調する意志を見せています。
これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものでしたが、儀式や神詣でをするには、いちいち多額の費用がかかります。
平家の場合、昇進に伴って官位が上がった者も多く、それに伴って荘園も増えていったため、比較的ダメージは少ない。
しかし、他の家にとってはたまったもんじゃありません。
しかもその最中、例の発言が出てしまいます。
「平家にあらずんば人にあらず」
なんだか、いかにも調子に乗った平清盛の発言に見えますが、発言したのは平時忠です。
発言したのが誰であれ、平家の「驕り」と疎まれても仕方はないですよね。
嘉応の強訴
また、嘉応元年(1169年)12月23日には延暦寺の強訴にもプレッシャーをかけられました。
【嘉応の強訴】と呼ばれる事件です。
きっかけは、尾張守・藤原家教の代官が、比叡山の日吉神人(ひえじにん)を侮るような言動をして、揉め事になったことです。
こうなると当事者同士では「ああ言えばこう言う」状態で埒が明かない。
そこで、双方が朝廷に訴え出たのです。
朝廷が、神人3名を獄に繋いで事を収めようとした……ところ、当然、比叡山側は納得しません。
神人たちと尾張の国主・藤原成親の流罪を求め、強訴に出たのです。
大衆(だいしゅ・僧侶の集団)は、文字通り神輿を持ち出し、内裏の待賢門・陽明門のあたりで鼓を叩きながら大声で訴えたとか。
当時、高倉天皇は7歳。
帝位についているとはいえ、現代でいえば小学一年生の少年です。家の周りでガンガンがなり立てられ、相当の恐怖を感じたことでしょう。
後白河法皇もそのあたりに気を遣い、
「幼主を驚かせるのは不遜であろう、院御所に来れば私が話を聞こう」
と言いました。
法皇にとっても、高倉天皇は、歳を重ねてから愛妃との間にできた子供です。政治的にも、個人的にも大切な存在だったことでしょう。
しかし、大衆は「幼主であっても、内裏へ訴えるのが伝統である」として聞きません。
説得や武力行使による追い出しなども考えられましたが、最終的に法皇は大衆の要求を受け入れました。しかし……。
決定までに時間がかかりすぎたせいか。
大衆は納得できず、なんと神輿を放置して一時的に引き上げてしまったのです。
やむなく法皇が成親の流罪を決めると、大衆はようやく納得し、神輿と共に山へ帰ったそうです。
しかし、法皇もさすがにこの決断を悔いたようで、比叡山のトップである天台座主・明雲を高倉天皇の護持僧から退けました。
また、処理に不手際があったとして、平時忠や平信範を解官・流罪にしています。
一方で成親の流罪を取り消し、時忠の後任として検非違使別当に任じました。
しかし今度は
「大衆をとりあえず内裏から出ていかせるために口約束をした上、後から関係者を処罰して、お気に入りの側近を不問かつ重職に就けた」
と見られても仕方がありません。
実際、この後処理が、延暦寺の不満を招きます。
巷には「再び強訴するのでは」という噂も流れ始め、懸念を抱く者も現れ始めました。
清盛はこのころ福原にいましたが、頼盛や重盛に事の次第を報告させると、どうにも話まとまらない様子。
「直接、京都に行って話をしないと、この件は収まらないか!」
そう考え、1月17日に上洛。これに影響されてか、成親は検非違使別当の辞任を申し出ています。
その後、後白河法皇のもとで再び公卿の会議が行われました。
時忠・信範の罪は問わないことにし、成親も解官だけで済ませる、ということで話がまとまります。
殿下乗合事件
翌嘉応二年(1170年)には、また別の事件も起きています。
【殿下乗合事件】と呼ばれるもので、きっかけは嘉応2年7月3日のこと。
摂政・松殿基房の一行が法勝寺での法華八講へ出かける途中、とある女車に遭遇し、基房の従者がその女車に対して「無礼だ」と咎めたのだそうです。
女車の従者に乱暴狼藉を働いたとも。
しかし、その車に乗っていたのが女性ではなく、平重盛の息子・平資盛だったため、さぁ大変。
なぜ資盛が女車に乗っていたのかは不明ですが、この時代、お忍びで出かけるときに用いるのはよくある話でした。
「息子の従者に暴力を振るわれた」となれば、親側としては黙っていられません。
基房は慌てて謝罪の使者を出し、下手人の引き渡しを申し出たそうですが、けんもほろろに断られてしまいます。
報復を怖れた基房は、騒動に関わった従者たちをクビにして検非違使に引き渡しました。
しかし重盛の怒りは解けず、兵を集めて報復の準備を……。
基房はすっかり怯え、参内もしなくなってしまったほどだったとか。
ただし、この頃は高倉天皇の加冠の儀が迫っていて、摂政という立場上、基房がこれをサボるわけにはいきません。
そして嫌な予感というものは往々にして当たるもので。
加冠の儀が行われる10月21日、参内する途中の基房一行を平重盛の兵が襲撃!
前駆5名が馬から引き落とされ、4人が髻(もとどり・髪を束ねた部分)を切られたといいます。
当時、公の場で冠や烏帽子を落とされたり、髪をさらすというのは非常に恥ずかしいことであり、髻を切られるのは死にも等しい恥辱です。
そのため基房は参内できず、加冠の儀は延期となってしまうほどでした。
ただし、直後の24日に基房と重盛は参内しているため、この数日の間に和解が成立したと考えられています。
この事件について、近年では
・史料によっては21日の襲撃犯の名が書かれていないこと
・資盛がこの後昇進していないこと
などから「重盛は関与していなかったのではないか」とする見方もあるようです。
しかし、平家の権勢が依然として強力である証としては間違いないでしょう。
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