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【梶原景時】
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屋島の戦い
同年4月になると、梶原景時と土肥実平が上洛し、平家の所領没収を担当しました。
この時期は源範頼が、中国から九州へ渡って平家方の武士を味方につけるための工作をしています。
頼朝は範頼に対し
「景季・実平とよく相談して事を進めるように」
と指示しており、範頼・景季・実平三人の連携を重視しているのがわかりますね。
同時期の義経が、許可を得ずに【検非違使】などへの任官を受けたことで頼朝の怒りを買い、一旦平家討伐から外されていたため、味方の連携を強く意識していたのでしょう。
しかし九州での兵糧や兵船の調達はなかなかうまく行かず、頼朝は方針を変えることにしました。
元暦元年(1185年)正月、頼朝は義経を再度、討伐軍に組み込むことを決めます。
摂津で準備させ、そこから屋島の平家軍を攻めるよう命じたのです。
平家物語では、このあたりから義経と景時が対立したという話が散見されるようになり、信憑性はさておき、次のようなエピソードがあります。
屋島へ渡る前、景時は兵の押し引きを意識し、
「船に逆櫓をつけ、進軍も撤退もしやすいように備えておくべきです」
と義経に意見しました。
逆櫓(さかろ)というのは、文字通り通常の櫓とは逆につける櫓のことです。船尾を進行方向に向けて進めることを指す場合もありますが、今回の場合は撤退のためでしょう。
しかし義経は
「そんな物は必要ない。退くときのことを考えていては兵が怖気づく」
と反対。
景時はなおも
「進むばかりが戦ではありません、退くことを考えないのは猪武者です」
と言ったそうですが、義経は聞きいれません。
義経の果断さは大きな長所である一方、敗戦のことも考慮して備える景時の考えも間違ってはいません。
結果は……。
義経が暴風の日に五艘の舟で出港し、油断していた平家軍を撃破して大勝を収めます。
景時が到着した頃には平家軍が既に撤退していたため、「六日の菖蒲」と嘲笑されてしまいました。
しかし、これは義経が奇跡的に渡航できたからであって、もしも海の藻屑になっていたら評価は真逆になっていたでしょう。
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壇ノ浦の戦い
屋島の戦い、その翌月。
【壇ノ浦の戦い】が始まる前にも、源義経と梶原景時の間で争いが起きたといわれています。
どういう言い争いだったのか?と申しますと。
まず景時が先陣を希望したところ、義経が「私が先陣を務める」と宣言。
これに対し、景時は「総大将が先陣を務めるなど言語道断、義経殿は将の器ではない」と言ってしまいます。
景時は、義経のことを「頼朝様の代理=総大将」と考えていましたが、義経は「総大将はあくまで頼朝兄上一人であり、自分は武将の一人に過ぎない」と捉えていました。
前提が全く異なっているため、言い争いになるのも仕方のない流れです。
このあたりは頼朝が明確にしておくべきだったかもしれません。
しかし、「将器ではない」という景時の言い方はさすがに無礼であり、二人のヤリトリを聞いていた義経の家臣たちが激怒。
景時親子と斬り合い寸前にまで険悪となってしまいます。
最終的には、三浦義澄が義経を、土肥実平が景時を御して、次のように説得しています。
「これから大事な戦だというのに、味方同士で争っている場合ではありません。
もし平家方が『源氏軍は仲間割れしている』などと聞いたら勢いづいてしまうでしょう。
それでは頼朝様も快くは思いませんよ」
何とかその場は収まったそうですが、これは土肥実平だけでなく三浦義澄の力も大きかったお陰でしょう。
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義澄は、後に十三人の合議制に加わる有力御家人の一人。
平治の乱で頼朝や義経の庶兄・義平に従っていた老練な武将だからこそ、義経も尊敬できる武士だったのではないでしょうか。
平家物語では
「景時はこれを恨みに思い、後に讒言して義経を追い詰めた」
ということになっていますが、義経にも非はあります。
景時は戦略についてたびたび義経に諫言していて、義経がほとんど聞き入れなかったのです。
結果だけ見れば、義経の果断さが勝利を導き、しかも神がかっていたので、周囲や後世から見ると評価は高くなるのですが、バクチが外れたら源氏軍にとって痛打となっていたはず。
吾妻鏡でも「義経に不満を持っていたのは景時だけではない」と記されています。
後に頼朝と決裂した際、義経の味方が極わずかだったことからも、人望が無かったのは想像に難くありません。
義経の反旗
梶原景時と源義経の争いはともあれ、壇ノ浦の戦いでは平家に完勝。
今度は別の戦いが源氏サイドの中で始まります。
文治元年(1185年)秋。
義経は頼朝の怒りを買って鎌倉へ戻れず、京都にとどまっていました。
そこへ景時の息子・梶原景季が源行家討伐の命令を伝えに行くと、義経は病と称して面会を断ります。
一両日後、景時が再び会いに行くと、今度は脇息にもたれて灸を据えており、いかにも病人といった様子。
そして「この有様なので、討伐は少し待っていただきたい」と申し出てきました。
景季は納得して鎌倉に戻り、頼朝にこれを報告しました。
その態度が、よほど腹に据えかねたのでしょう。景時はこう主張します。
「景季を待たせた一両日の間、わざと絶食し、病に見せかけたに違いなし。義経殿は行家殿と通じているのでは」
信頼している景時の主張に、すかさず動いたのが頼朝。
土佐坊昌俊に命じて義経の暗殺を図りますが、返り討ちに遭ってしまいます。
こうなっては関係修復は不可能とばかりに、義経は、後白河上皇に願い出て頼朝追討の院宣を取り付け、源行家と合流して反旗を翻そうと図ります。
行家は以仁王の令旨を頼朝に伝えた人ですね。
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このときは頼朝の麾下に入ることを嫌がり、独自の勢力を保とうとしていたり、義仲に味方しながら些細な点で対立したり、なかなか気難しい人だったようです。
まぁ、源氏全体に言えることですが。
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