興国元年=暦応三年(1340年)3月5日は、足利基氏(もとうじ)が誕生した日です。
室町幕府の初代将軍である足利尊氏の四男で、正室生まれとしては二人目。
側室生まれの兄である竹若丸と直冬は生年月日がはっきりしていませんから、正室と側室の差がわかりますね。
もちろん、同母兄で後に二代将軍となる足利義詮(よしあきら)も生年月日が記録されています。
基氏の場合は、鎌倉幕府を倒した後に生まれているので、より記録を残しやすかったのかもしれません。
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9歳で鎌倉へ送られ公方となった
足利基氏について幼少期の目立った逸話はありません。
というより9歳の幼さで鎌倉公方として鎌倉へ送られているので、それまで特別な記録がなくても仕方がなく、心身共に健康に育っていたのでしょう。
基氏が送られるまでは、兄の足利義詮が関東を任されていました。
しかし【観応の擾乱】(足利尊氏と直義による史上最大の兄弟喧嘩)が勃発すると、父の足利尊氏が義詮を
「ちょっとこっちで戦になりそうだから戻ってこい」(※イメージです)
と呼び戻したため、入れ替わりに基氏が鎌倉へ入ることになったのでした。
家臣が付けられたとはいえ、よく9歳の子供を遠く離れた関東へ送ったものですよね。
このくらいの歳なら「元服まであと数年」ではあるので、「あいつもデカくなったしヘーキヘーキ」とでも思ったんでしょうか。
尊氏の脳内を推し量ろうとするのは至難の業なので、とりあえずそういうことにしておきましょう。
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有力者が補佐につき父と共に戦場へ
こうして鎌倉へやってきた足利基氏を支えたのが、上杉憲顕(のりあき)と高師冬(こうの・もろふゆ)でした。
憲顕は尊氏の母方の従兄弟であり、師冬は高師直の従兄弟で養子です。
名実ともに当時のトップクラスのお偉いさんたちといえます。
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最初のうちは基氏に協力していた二人でしたが、やがてここにも観応の擾乱の余波が押し寄せます。
憲顕は尊氏の弟・足利直義に、師冬は同族の高師直に味方することとなり、基氏のサポート役が仲間割れする形になってしまうのです。
そして上杉能憲によって師直・師泰兄弟が暗殺されたため、師冬は憲顕ら直義派の武将たちに追い詰められて、自害。
この間、基氏は他の家臣に守られて、戦火を避けながら関東のあっちこっちを移動し、執務を行っていたようです。
また、実父尊氏と叔父直義の仲裁をしようと考えたものの、尊氏に許されず、安房に行っていた時期があるとかないとか。
観応の擾乱時点で基氏は12歳程度だったことを考えると、幼いながらに「一族の結束が何よりも大事」という考えを持っていたのは立派ですね。
というか、むしろ大人どもが何してんねん……という感じでしょうか。
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