足利基氏

足利基氏(狩野洞春作)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

9歳で初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏四男)不審な最期を迎える

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武蔵野合戦を経て入間川へ

文和元年(1352年)に尊氏が直義に勝利を収めると、足利基氏も鎌倉に戻り、元服を済ませました。

しかし、よりによってその翌日に直義が亡くなり、上杉憲顕が激怒して反尊氏の兵を挙げてしまいます。

そこに新田義貞の遺児である新田義宗・義興らが呼応するから大変。

後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じて新田氏の本拠・上野から怒涛の勢いで鎌倉へ南下してきました。

尊氏は鎌倉に滞在していたため、自ら新田軍を迎え撃ちます。

【武蔵野合戦】と呼ばれているものです。

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ちなみにこのとき上杉・新田に同調した武士の中に、鎌倉幕府の生き残りである北条時行がいました。

時行にとっては最後の戦になるので、マンガ『逃げ上手の若君』でもクライマックスとして描かれるかもしれません。

基氏もこの頃は父と同行しており、各地を移動。

おそらくは戦の実地訓練といったところだったのでしょう。

文和二年に尊氏が京都へ向かうと、基氏は新田氏への抑えとして後を任され、武蔵の入間川に滞在します。

これがなかなかに長く、延文四年(1359年)までの六年間に及びました。そのため基氏は「入間川殿」とも呼ばれていたようです。

もちろん幼い基氏の単独ではなく、執事として畠山国清がつけられています。

延文三年(1358年)10月10日に新田義興が謀殺されたことにより、新田氏に同調していた関東武士は基氏につくようになります。

頃合いと見たのか、基氏は同時期に畠山国清の妹を妻に迎え、その後、鎌倉へ戻りました。

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新田義興(義貞の次男)が矢口の渡しで謀殺されて~新田家嫡流の血脈も終わる

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兄との調和を図る

一方その頃、京都では尊氏が亡くなり、義詮が将軍職を継承していました。

幼い頃から父と叔父、そして周囲の人間の争いを見てきた足利基氏は、

「自分はその轍を踏まないぞ」

と決意し、義詮と良い関係を築いていくべく努力を重ねます。

上方で戦になった際には、兄のために関東の兵を集め、基氏にとっては片腕の畠山国清にその指揮を任せました……が、よりによってこの国清が基氏に背いてしまいます。

仕方がないので基氏は康安元年(1361年)11月に国清を討ち、翌年に関東から追放。

手元を離れていた上杉憲顕を呼び戻して越後守護に任命し、さらに関東管領の職も与えました。

ここで新たな問題が起きます。

越後守護の地位は、かつて尊氏が宇都宮氏綱という人に与えたものだったのです。

氏綱は観応の擾乱で武功を挙げてこの職をもらっていたので、ぽっと出(に思える)憲顕にかっさらわれては、当然腹が立ちます。

すると基氏は「待ってました」とばかりに宇都宮征伐に動きました。

氏綱は降伏を選んだため、さほど長引かずに戦いは終結しています。

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