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【足利基氏】
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禅や文学などの文化活動を奨励
鎌倉府は足利基氏と上杉憲顕によって地固めができました。
すると基氏は「別の方向で鎌倉を豊かにしよう」と思い立ちます。
尊氏たちが世話になっていた僧侶・夢窓疎石の弟子である義堂周信を招き、禅や文学を奨励したのです。
周信は基氏の息子・氏満の教育係も務めているので、公私共に信頼関係があったものと思われます。
また、基氏は和歌と笙(しょう・雅楽などで使われる日本古来の楽器)を嗜み、美食を愛する人物だったそうなので、周信としても付き合いやすかったのでしょう。
周信自身が「私と基氏とは君臣を超えた付き合いをしてきた」と日記に書いているくらいですから。
義詮としても、やはり骨肉の争いに対しては「防がねばならない」という気持ちが強かったようで、八幡宮に
「兄弟相護、誓死不変」
という誓書を収めた……という話が残されています。
尊氏が直義に関して似たような願文を清水寺に収めたことがあるのですが、その後どうなったかを考えるとフラグのようですね。
それに源氏の氏神である八幡神なら、頼朝と弟たちをはじめとした源氏のアレコレも見ているわけで。
「とは言っても、お前の一族仲間割ればっかじゃん」
と思われていそうです。
基氏の死後 室町幕府と鎌倉府は決裂
正平二十二年=貞治六年(1367年)4月、足利基氏は突然亡くなってしまいました。
まだ28歳。
死因は麻疹だといわれていますが、この時期の鎌倉府に同じ死因の人がいなさそうなので、ちょっとアヤシイですね。
麻疹は伝染病ですし、基氏は健康に難があったわけでもなさそうですし、その状況で彼だけがピンポイントで亡くなるというのは、どうにもこうにも不信さが漂います。
ちなみに義詮も同じ年の12月に亡くなりました。怪しすぎ。
「兄弟仲良くってそういう意味じゃない!」と、本人たちが一番言いたかったことでしょう。
ついでにいうと、義詮の息子である三代将軍・足利義満と、基氏の息子・氏満のあたりから
【幕府vs鎌倉府の対立】
が始まり、関東における戦国時代の遠因ともなっていきます。
まぁ世代が下るとどんどん血筋が遠くなっていきますし、直接顔を合わせていなければ親しみや「協力しよう」という気も薄くなるのは致し方ないところですが……。
義詮も基氏も草葉の陰で泣いてそうですね。
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長月 七紀・記
【参考】
峰岸 純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
国史大辞典
ほか