仲の良い人同士でも、一度大ゲンカをしてしまってそれっきり絶交……なんてこと、ありますよね。
現代人でもそうですから、もっと血の気の多かった時代はなおのこと。力も絡んでくれば、当事者以外の思惑も大きく影響してきます。
正平七年=文和元年(1352年)閏2月20日は、小手指原の戦いがあった日です。
この戦いそのものが歴史を変えたわけではなく、室町幕府初期における内乱【観応の擾乱】の戦闘の一つ――そう捉えると少々見方が変わるでしょうか。
当時の背景をざっくり確認するところから始めましょう。
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そもそもは観応の擾乱に起因する
鎌倉幕府打倒の際、足利軍は兄・足利尊氏と弟・足利直義の協力で成り立っていました。
それは室町幕府ができてからも変わらず、尊氏が軍事、直義が政治を受け持ち、「両将軍」と呼ばれるようなパワーバランスが保たれていたのです。
プライベートでも二人の関係は比較的良好でした。
しかし、高師直などの重臣が「将軍は一人だろ」(※イメージです)と言い出し、当人たちよりも尊氏派・直義派それぞれの側近が対立し始めます。
コトは師直らの左遷にまで発展し、事態を悟った直義は出家して幕府を去りました。
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ここで、尊氏の庶子であり直義の養子になっていた直冬が絡んできます。
直冬は義父のピンチを救うため(?)、反乱を起こし、直義もまた後醍醐天皇について兵を挙げてしまいました。
観応の擾乱の始まりです。
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発端の一角である師直らは乱の初期に排除されたのですが、半年もしないうちに再び空気はキナ臭くなり、戦となりました。
尊氏と息子の二代将軍・足利義詮が直義を挟み撃ちしにかかり、直義は京都を脱出して難を逃れます。
そして正平七年=文和元年の初め、関東で尊氏軍に敗北・幽閉され、2月に急死しました。
直義方の中に新田義貞の息子・義興や義宗も
小手指原の戦いは、直義が亡くなった翌月のことです。
上記の通り、この年は2月が閏月になっていたので、日付だけ見るとちょっとややこしいですね。
直義方についた関東の武将たちは、京と鎌倉の奪還を狙って動き出しました。
父の仇討ちという側面もあったのでしょう。となると、新田軍の士気はかなり高かったはずです。
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この辺りの関東で起きた戦いをまとめて【武蔵野合戦】といいます。
小手指原の戦いはそのうちの一つで、現在の地名でいえば、埼玉県所沢市付近が戦場となりました。
『太平記』では「双方合わせて20万の大軍がぶつかりあった」とされていますが、さすがにかなりの誇張でしょう。
大戦であったことは間違いないにせよ、足軽雑兵が少ない当時の戦いであれば、両軍で数千単位でもかなりの規模になります。
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