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【北条時宗】
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いっそコチラから高麗へ攻めこんだろか
防戦一方の難しさを理解した時宗と幕府は、
「いっそこっちから、元の拠点である高麗(朝鮮半島)に攻め込んではどうか?」
とも考えます。
が、費用と人手不足の面から、この計画は取りやめになりました。
まぁ、少し考えれば、わかりますよね。
立場が逆になったら不利になるのもこっちになり、ズタボロに負ける可能性のほうが高いということに気づきそうなものです。ただ、古代には白村江の戦いが……。
ともかく幕府は、九州沿岸への防塁建設や人員増を進め、再度の侵攻に備える方針に切り替えました。
九州を一つの城と見立てれば、攻城戦と同じく、防衛側が有利です。
元が天候などの地理に関心が薄かったことも、日本にとっては幸いでした。
とはいえ元も諦めたわけではなく、文永の役の後にも【降伏を迫る】使者を送ってきています。
時宗は彼らを鎌倉に連れてこさせ、江ノ島にあった刑場で斬首しました。
「攻めてくるなら攻めて来い。何度でも追い返してやる!」
これは、元に対してというよりも、御家人たちへの示しをつけるための果断だったのでしょうね。
こういうときにトップが方針を変えたり、気弱なところを見せたりすると、一気に団結が崩れてしまいますから。
そうなれば時宗だけでなく、得宗家全体への不審が爆発しかねません。
一度は鎮めた北条氏内の対立が激化することも考えられます。
残酷なようにも思えますが、このときの時宗は、自分のため、幕府のため、そしてもちろん日本という国のために、絶対に引けない立場でした。
世界史上でも稀に見る規模の軍団
そのぶん心身にかかる負担も凄まじいもので、これ以前から南宋(当時の中国王朝)より招いていた無学祖元という僧侶などに支えられています。
※祖元は「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)という書を時宗に与え、腹をくくるよう促したといわれています。
元もこの事は半ば予想していたのでしょう。
使者を送り出してすぐに再軍備にかかりました。
並行して南宋の完全攻略も進めていて、そちらは成功させているので、やはり陸戦には強いことがわかります。
「陸上の進軍と同じノリで渡航するから失敗するんじゃね?」とツッコミたいところですが、これが成功していたら今日までの日本の歴史が変わっていたでしょうから、心の中にしまっておきます。
元の内部でも「日本をいつ討つか」という点で意見が割れ、二回目の侵攻である【弘安の役】までは数年の間が開きました。
そして弘安四年(1281年)、再び元軍が襲来します。
細かな数字には記録上バラつきがあるものの、文永の役から数倍の規模だったようで。
日本史どころか、世界史上でも稀に見る規模の軍です。
今回も対馬・壱岐がまず侵攻されましたが、一部は長門にも上陸したようです。
長門については史料があまり見つかっていないようですので、今後新たな事実が発覚するかもしれません。
主戦場となったのは、やはり博多湾周辺でした。
防塁を利用して奮戦した日本軍を恐れ、元軍は少し離れた志賀島を拠点にしようと試みます。
が、日本軍に夜襲をかけられたことを皮切りに、どんどん劣勢になっていきます。
そのため壱岐へ後退して援軍を待とうとしたところ、軍の中で流行病が発生。
見えない敵に苦しめられながらも元軍は待ち続けましたが、あろうことかその援軍が別の島に行ってしまい、大幅なタイムロスができてしまいました。
やっと合流して再び戦闘に入ったものの、その頃には海が荒れ始めており、ついに7月末に台風の直撃を受けて元軍は壊滅します。
といっても、元軍は5月からずっとこのあたりにいたはずなので、台風のことを全く知らなかったはずはないのですが……7月末の台風だけが今で言うところの超大型台風クラスで、元の予想と対策を上回ったのでしょうか。
その後、日本軍が数回ほど追撃戦を仕掛け、武士たちも面目を保つことができました。
こうして、二度めの襲来である弘安の役も日本の勝利で終わります。
元では反乱も起き日本への侵攻できず
元ではその後、
「日本の武士も女も戦闘力がパネェ。こっちから攻めていくとかやめといたほうがいい」(意訳)
「日本を攻めても全然得しない。行くだけ無駄」(同上)
というような世論が高まったといいます。
それでも諦めないクビライ・カーンは、その後も日本へ服従を迫る使者を送り続けました。
が、こういった世論に怯えた水夫たちが使者をブッコロしてしまうなどの事件が起きたりして、そもそも到達できなかった……なんてこともありまして。
そりゃあ、支配者は民衆にいくらでも無茶ぶりできますけれど、やらされるほうとしてはたまったもんじゃないですよね。
また、クビライの身内かつ重鎮が戦費の負担に耐えきれなくなり、
「こんな戦争やってられるか! 皇帝ブッコロ!」(超訳)
と反乱を起こしたこともあって、一時日本への侵攻はとりやめられます。
とはいえ、日本側ではそういった元の内部事情はわかりません。
時宗は弘安の役の翌年、鎌倉に円覚寺というお寺を作って、元寇の戦死・溺死者を弔うと同時に、九州の警備を続けさせました。
国を守るためにしたことでしたが、御家人たちは
「いったい、いつまで費用を負担すればいいんだ?」
「俺たちは戦に勝ったんだから、幕府から恩賞をくれるはずだよな? いつになったらもらえるんだ?」
といった不安と不満を溜めていきます。
しかし、防戦一方だった元寇では、敵からモノやお金や土地を得ることはできません。
つまり、恩賞を与えたくても、元手がないのです。
弘安の役から三年後の1284年……
幕府のほうでもそれはわかっていて、何とか御家人たちをなだめようと、改革案が立てられます。
が……解決し切る前に、時宗の心身が限界を迎えてしまいます。
弘安の役から三年後の1284年、時宗は満32歳の若さでこの世を去ってしまいます。享年34。
歴代執権の中でも、三番目に短い生涯。
ちなみに、一番短かったのは四代・経時で病死。
二番目は十四代・高時で、執権から退いた後、討幕の際に自刃しています。
時宗の死因はハッキリしておりません。
結核とも心臓病ともいわれています。
まあ、これだけストレスにさらされていれば抵抗力も弱まるでしょうし、食事や睡眠がまともに取れていたかどうかもアヤシイですよね……。
時宗は戦前辺りまで「国難を救った英雄」と評価されておりましたが、彼にとって、この世を去ることが唯一の休息だったとしたら、何とも悲しい話です。
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長月 七紀・記
※1 白村江の戦い…天智二年(663年)、朝鮮半島にあった百済復興のため日本が援軍を出したものの、唐(当時の中国)・新羅(朝鮮半島の有力国)連合軍にボロ負けした戦い
【参考】
国史大辞典
北条時宗/wikipedia