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【伏見天皇と「浅原事件」】
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暗殺された天皇は記録上ただ一人・崇峻天皇
危機を脱した伏見天皇は、当然のことながら背後関係を調べさせました。
下手人は暗殺失敗の後、警護の武士に見つかって自害したのですが、そのとき用いた刀が公家の三条実盛のものだったことがわかります。
この人が大覚寺統派だったことから「背後に大覚寺統が絡んでいるのでは?」と思われました。
しかし、亀山法皇が「私は神に誓って関係ありません」という起請文(神仏に誓いを立てて身の潔白を証明しようとする文書)を出したこと、伏見天皇の後見(実権者)である父の後深草法皇が事を荒立てようとしなかったことで、それ以上の詮索はされずに終わります。
側近・京極為兼は二度も流刑に遭っている
伏見天皇としては、頭を押さえつけられたようで気に入らない結末だったでしょう。
浅原事件から9年後、息子の後伏見天皇に譲位し、院政を行って両統迭立に対抗しようとしましたが、幕府の意向と大覚寺統には抵抗しきれませんでした。
それでも、後伏見天皇(持明院)・後二条天皇(大覚寺)・花園天皇(持明院)と三代の時代を生きて、自分の息子である後伏見・花園天皇のときは院政を執り行いましたので、ギリギリというところでしょうか。
もしもおおっぴらに鎌倉幕府に反抗したり、元寇の恩賞について不満を持っていた武士を味方につけたりしていたら、今度こそ確実な方法で暗殺されていたかもしれません。
というのも、伏見天皇の古くからの側近であり、和歌の師でもあった京極為兼(ためかね or ためかぬ)が、鎌倉幕府によって二回も流刑にされているのです。
伏見天皇の代わりとか、天皇へプレッシャーをかけるため、とも考えられております。
為兼は佐渡に流されて一旦帰京を許されたにもかかわらず、十年ほどして土佐へ再び流罪になって、そのまま亡くなっています。
さぞかし「これ以上逆らうと、どうなるかわかってますよね^^」という空気が漂っていたことでしょう。
流罪となった直接的な原因は不明ですが、伏見天皇が出家して、後伏見上皇に院政を引き継がせたことかもしれません。
いずれにせよ暗殺までされなくて良かったですね。
実際に暗殺された天皇は?
歴史的には、実際に暗殺された天皇もおります。
第32代の崇峻天皇です。
聖徳太子の叔父さんにあたり、推古天皇の異母弟でもありました。
同時代にそういったビッグネームが多いせいなのか、大人の事情によるものか、「史上唯一の天皇暗殺」という大事件の割に授業などでは注目されませんよね。
他に暗殺疑惑を囁かれたりする天皇は、主に3名ほどいらっしゃいます。
なお、両統迭立はその後南北朝時代となって長いこと日本の政治に影響を与え続けます。
その系図を記事末に掲載しておきまので、よろしければご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
伏見天皇/Wikipedia
浅原事件/Wikipedia