源義経

源義経/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

戦の天才だった源義経~自ら破滅の道を突き進み兄に追い込まれた31年の生涯

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奥州藤原氏へ身を寄せ

どこをどう歩いて流れ着いたのか。詳細は不明ながら、義経は奥州藤原氏へ身を寄せました。

当時の奥州藤原氏の当主は藤原秀衡です。

秀衡が義経の言い分をそのまま信じたかどうかはわかりませんが、源氏の御曹司を庇護することについて、デメリットはありません。

そもそも、奥州藤原氏は後三年の役で源氏に味方してもらったからこそ成り立ったという歴史的事実がありますしね。

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もちろん、義経が本当に源氏の御曹司ならば味方につけておいて損はありませんし、もし事実でなかったとしても、担ぎ上げることはできます。

最悪の場合でも客将くらいに扱うことは可能でしたでしょう。

つまり、この時点では、どのパターンになっても奥州藤原氏にとっては悪くない話だった、と考えていいかもしれません。あくまでこの時点では……。

えさし藤原の郷で再現された奥州藤原氏の鎧

秀衡の縁者には、後白河法皇の近臣(いわゆる「院の近臣」)が何人かおりました。

その中に常盤の再婚相手だった一条長成(いちじょうながなり)がいたため、長成のツテによって義経は秀衡の下へ行った……という説もあるようです。

それならそれで、もうちょっと記録が残りそうな気もしますが。

 


頼朝と対面した後、範頼と共に京都へ

さて、義経が歴史の表舞台に出てくるのは、それからしばらく経った治承四年(1180年)のことです。

頼朝が挙兵したことを聞き、実兄を助けて父の仇を討とうと意気込みました。

秀衡も賛成し、義経に自分の家臣である佐藤継信・忠信という兄弟と、その他に騎馬武者を数十騎つけてやっています。

これで義経が、頼朝や朝廷に認められれば、その後ろ盾として奥州藤原氏の勢力も強まる……という計算も当然あったでしょう。

頼朝との対面を果たした後、義経はもう一人の兄・源範頼と共に京都へ。

そこで戦功はあったものの、都で狼藉を働いてしまったイトコ・義仲を討ち、源範頼と【一ノ谷の戦い】に臨みます。

【鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし】と呼ばれる、急坂からの奇襲で平家軍を蹴散らし、一躍、英雄視されるようになりました。

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用

義仲がアレコレと無茶やった直後だったため、京都の人々にとっては、義経の活躍がより鮮明に映ったことでしょう。

一ノ谷の戦いの後、義経は頼朝から「治安回復のため、京都に留まるように」と命じられ、実際、その通りに働きました。

お陰で、後白河法皇や公家たちの信頼を得ています。

しかし、その信頼が仇にもなるから歴史とは残酷なものです。

 


後白河法皇に政治利用されてしまい……

後白河法皇から利用価値を認められてしまった義経は、政争の道具にされてしまいます。

「コイツをうまく使って、頼朝が政治力をつけないようにしよう」ってなワケでして。

その象徴となる出来事が、義経の検非違使・左衛門少尉叙任でした。

いずれも京都の治安維持に関わる役職であり、義経から見ればこんな風に考えたかもしれません。

「法皇様が俺の働きを認めてくださった! 源氏の名誉だ! 兄上も喜んでくださるに違いない!」

ところが、です。

頼朝からすれば、こう疑惑の対象となってしまう。

「義経め、俺の頭越しに官職を受けるなんて何を考えてるんだ? まさか法皇に媚びて、朝廷に入り込むつもりじゃないだろうな?」

頼朝だけでなく、彼ら清和源氏(河内源氏)は、とにかく血族同士による内輪揉めの多い一族です。

やっとまとまり始めたばかりの源氏軍の中心に、頼朝をないがしろにするような弟がいれば、他家にも示しがつきません。

「なんだアイツ、自分の弟にナメられてるのかwww なら俺達だって従わなくてもいいじゃんwww」

そんな風に思われたら、せっかくの政権も揺らいでしまいます。

義経は素直すぎ、頼朝は確認を怠りすぎ。それがこの兄弟の悲劇の始まりだった……と言えそうです。

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