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【源義経】
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嗚呼、源氏、スレ違いがちな一族よ
さらに不幸なことに、彼らには間を取りもってくれる家臣や親族がおりませんでした。
唯一その立場になれそうだったのは、年齢的にも生まれ順的にもちょうど間になる源範頼です。
しかし……彼は彼で、自分の失態を頼朝に詫びていた時期だったので、仲立ちになることは難しかったと思われます。
源範頼が殺害されるまでの哀しい経緯 “頼朝が討たれた”の誤報が最悪の結末へ
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優秀なところもあるのにスレ違いがちな一族。嗚呼、源氏って切ないなぁ……(´・ω・`)
頼朝は、警告の意味をこめてなのでしょうか、義経を平家追討から外します。
しかし、文治元年(1185)の年明けには、再び同じ役目を与えて、義経に出陣を命じているのですから、やはり力を認めていたのでしょう。
実際、義経はその後、屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで連勝し、平家追討を成し遂げるのです。
ただ……ここでも彼はやっちまいました。
壇ノ浦の戦い前に頼朝の家臣・梶原景時と大ゲンカをしてしまったのです。
これがキッカケで、さらに頼朝の不信を招いたといわれています。
もちろん頼朝も、景時の告げ口をすべて鵜呑みにしたわけではなく、それまで続いた不手際や、三種の神器を取り戻せなかった失敗を重く見たのでしょう。
兄の許しを乞うため鎌倉へ出向くも門前払い
さすがにキナ臭くなってきた空気を感じ取った義経。
兄の許しを乞うために、捕虜となった平家のトップ・平宗盛らを鎌倉に護送するついでに直接弁明しようと試みました。
しかし、源頼朝は門前払い。
それでも諦めず、相模の腰越というところに留まって、頼朝の近臣・大江広元にとりなしてもらおうとします。
結果から言いますと、これもダメ。このとき書いた手紙が【腰越状】として知られています。
本当に義経が書いたものかどうかは不明です。
義経が広元に仲介を頼んだ可能性は高そうですが、腰越状は後世の脚色が多大に入っているでしょう。
もっとも広元は、自ら「成人してから涙を流したことがない」と言うような冷徹な人だったようなので、義経の情に訴えるような物言いや手紙では、取り次ぐ意味なしと判断している可能性は否定できません。
おそらくや広元の兄である中原親能(なかはらちかよし)が、平家討伐で義経に同行していたため、そのツテで広元に頼んだのでしょうが……相手に恵まれませんでしたね。
頼朝、再びチャンスを与えるが
義経は仕方なく、宗盛たちを連れて京都に戻りました。
後白河法皇はこの流れを見てうまくいっていると感じたのか、義経を伊予守に任じます。
当然のことながら、頼朝はさらに激怒。
それでも、もう一度チャンスを与えます(というか、その前に会えば良かったのに……)。
頼朝は義経に対し、以前、源義仲と手を組もうとしていた叔父の源行家を討つよう命じました。
戦は下手でもメンタルだけは強い!源行家は墨俣川の戦い惨敗後も粘り続けた
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ここで義経が、にわかには信じがたいリアクション。
「今ちょっと体調が悪いので」と言い訳をして、行家討伐を断ってしますのです。
さすがに頼朝も「あの野郎、もう俺の言うことをきくつもりがないんだな! よろしい、ならば戦争だ!」と方針を決めてしまいます。
頼朝は、土佐坊昌俊という刺客を送り、義経を始末しようとしました。
しかし、源行家の助太刀もあり、逆に昌俊のほうが捕らえられ、「頼朝から命じられて義経を襲った」と白状。
もはや義経も温厚ではいられなくなります。
義経は、本当に行家と手を組み、次に頼朝追討の院宣を後白河法皇に求めました。
ガチのぶつかり合いを避けたかったのでしょう。
法皇は狼狽しますが、押し切られる形で院宣を出してしまいます。
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