足利尊氏

足利尊氏/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

足利尊氏はどんな経緯で征夷大将軍となった?ドタバタの連続だった54年の生涯

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正成に勝ち 賞賛を浴びるも一人でさっさと帰還

このとき足利高氏が向かう予定だったのは、これまた南北朝の主役の一人・楠木正成の赤坂城でした。

正成は奇策を用いて幕府軍を翻弄し、「ここは守りきれない」と判断すると、自害したと見せかけて城に火をかけ、逃亡。

戦としての勝者は高氏ですが、なんとも消化不良な結果に終わりました。

そのため幕府からも他の武士からも「さすが足利氏!」と賞賛を浴びながらも、高氏本人は不服だったらしく、一人でさっさと鎌倉へ帰ってしまいます。

あまりの非礼ぶりに、褒美をやる予定だった花園上皇も

「いくらいい仕事したからってあの態度はないでしょ……」(超訳)

と呆れ果てています。

騒動が終わった後は関係者が次々と処罰され、後醍醐天皇は廃位の上、隠岐島へ流刑。

高氏は第一の功績者として従五位上の位をもらいますが、幕府への不満は残ったままだったと思われます。

その翌年、後醍醐天皇が再三倒幕計画を立てた際、高氏は倒幕方につくことを考え、弟・直義に相談しました。

「幕府を欺くために妻子を人質に出し、誓書も出す。いざというときは妻子を逃がせるよう、郎党を数人つけておく」

表面上は味方になった高氏について、幕府の方では

「高氏の妻は赤橋氏(北条氏の親族)出身だし、もう子供も作ってるし、源氏の名門だし、これで一安心」

と思っていたことでしょう。

元弘三年(1333年)4月、こうして高氏は再び西へ向かいました。

この間に楠木正成が復活して千早城で幕府軍を引き付けており、同年3月には幕府方だった新田義貞が戦線を離れています。

新田義貞
新田義貞が鎌倉幕府を倒しながら 後醍醐天皇に翻弄され 悲運の最期を迎えるまで

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これは完全に憶測ですが、この後の動きを考えると、どこかで足利・新田間の連絡があったかもしれませんね。

高氏はこの後、近江で後醍醐天皇から倒幕の綸旨を受け、京都にあった鎌倉幕府の出向機関・六波羅探題を攻略。

同時に各地の武士へ倒幕に協力するよう密書を送りました。

前述の通り、このとき高氏の正室・登子と嫡男・義詮は鎌倉で人質になっていたので、護衛役の郎党達によって脱出しています。

一方、側室生まれだった長男・竹若丸は、同じように脱出した後、駿河国浮島ヶ原(現・静岡県沼津市)で幕府の追手にかかって殺されてしまったといわれています。

長庶子もいずれきちんと世話しようと思っていたのか。

それとも幼くして亡くなったことを哀れんだか。

高氏は後々、同じ駿河の地で竹若の菩提を弔いました。

いろいろとトリッキーな言動の多い高氏ですが、少なくとも死者の供養については常識的というか、信心深さが浮かんできます。

 

義貞が鎌倉幕府に引導渡す

「源氏の名門・足利が幕府を裏切った!」

そんなビッグニュースは、各地の武士を大きく動かしました。

後醍醐天皇も隠岐を脱出し、上方では後醍醐天皇の皇子・護良親王が指揮を取り、倒幕の機運がうなぎのぼり。

同じ頃、足利高氏の妻子(登子と義詮)を保護した足利氏の家臣たちが上野に走り、これまた源氏の名門である新田義貞に合流。

そして義貞は、義詮を旗頭として兵を挙げ、鎌倉を攻めて幕府本体を滅ぼします。

「同族が離れたところで協力し、大きな組織を滅ぼした」

という実に胸アツな展開のはずですが、この後のゴタゴタが本人たちも後世の我々も悩ませてくれてしまうためか、プラスな印象で語られることはあまりないような気がします。

この時期はとにかくいろいろな人が同時に動くのがやっかいなところ。

鎌倉幕府滅亡の後は、いったん京都へ視点を移しましょう。

目の上のたんこぶだった幕府が滅んでホクホクな後醍醐天皇は、当時も今も悪名高き【建武の新政】を始めます。

建武の新政
建武の新政はあまりにお粗末「物狂いの沙汰=クレイジー」と公家からもディスられて

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倒幕における最大の功労者だった高氏ももちろん褒美を与えられ、従四位下左兵衛督に昇格しました。

さらには鎮守府将軍の職と、後醍醐天皇の本名である「尊仁」から「尊」の字を拝領して、いよいよ存在感を強めていきます。

ここからは「尊氏」と表記しますね。

足利尊氏は「自らは朝廷の実質的な要職を望まず、自分の配下を建武政権に送る」という形を取りました。

なぜ、そんな方法を選んだのか?

これまた不思議な行動ですが、尊氏の人格評に「人からの贈り物や褒美を気前よく部下にやってしまう」というものがあるので、それと似たような感覚だったのかもしれません。

あるいは、この頃から「どうしても征夷大将軍の職がほしい。それ以外の官職などどうでもいい」と思っていたのでしょうか。

それとも中央政府に食い込みすぎた平家の轍を踏むまいと意識していたのでしょうか。

一方で、倒幕の立役者のひとりである護良親王はこのあたりの動きから尊氏を警戒し、後醍醐天皇にも注意を促していたと思われます。

天皇もそれを容れたものか、新田義貞や楠木正成には記録所などの新しい役所へ参加することを許している一方で、尊氏にはそうした役職を与えていません。

つまりこの時点での尊氏は、「天皇からの偏諱」その他の栄典は受けていたものの、宮廷における実権は持っていなかったことになります。

 

尊氏「護良親王に謀反の疑いあり!」

足利尊氏は、着々と地方の武士を傘下に収め、力を蓄えていました。

尊氏の計算高いところは、弟・足利直義に鎌倉を任せた点にも見えています。

現代の我々には想像しにくい面がありますが、特に東国の武士にとって、鎌倉は何が何でも確保しておきたい土地。

当時はまだ北条氏の残党も粘っていたため、それらに対する牽制もありました。

意地の悪い見方をすれば、鎌倉にある程度兵を置いておけば、北条方が向こうから来てくれるわけです。

鎌倉の防御能力や天災への弱さはデメリットですが、兵糧調達や移動時間の短縮が図れる点はかなりのメリットにもなりえます。

実際には武士たちが鎌倉にこだわりすぎたせいで、この後二百年くらい関東がゴタゴタするんですけれども……。

後醍醐天皇は尊氏を正三位・参議に格上げすることでなだめようとします。

しかし、それで満足する尊氏ではありません。

建武元年(1334年)11月、尊氏は「護良親王に謀反の疑いがあります!」と後醍醐天皇に迫り、あろうことか親王をしょっぴいて鎌倉にいる直義の預かりとしました。

なんでこのタイミングで後醍醐天皇が尊氏を信じたのか、なぜ息子を信じなかったのかが解せないのですが……。

ここでトラブルが起きます。

建武二年(1335年)に最後の北条得宗・北条高時の遺児である北条時行とそれを庇護する諏訪氏らが鎌倉奪還に動き、直義は一時退かざるをえなくなってしまったのです。

ついでに直義はこの時、護良親王を殺して後顧の憂いを断っています。

源氏の嫡流が途絶えた後、鎌倉幕府の将軍は藤原氏の御曹司や皇族が就いていましたので、それを時行方に再現されてしまうと困るからです。

直義は「名目上の鎌倉将軍」として後醍醐天皇の皇子・成良親王を戴いていたため、この点も抜かりなかったのでしょう。

これらの知らせを受けた尊氏は、後醍醐天皇に「弟の救出と鎌倉の再奪還のため、私を征夷大将軍に任じてください」と申し出ました。

しかし、後醍醐天皇はこの申し出を警戒。

「いきなり征夷大将軍になりたいって言いだすなんて、さてはコイツ……今度は自分が鎌倉で幕府を作る気だな。そうはさせん!」

と、尊氏の望みは叶わず、征夷大将軍の座は成良親王に与えられています。

実は護良親王も以前この職についていたことがあるので、それなら護良親王をずっと征夷大将軍にしておいたほうが良かったんじゃ……とツッコミたくなるところ。

中心人物である尊氏と後醍醐天皇の信念がよくわからないことが、この時代がややこしくなっている最大の要因かもしれません。

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