足利尊氏

足利尊氏/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

足利尊氏はどんな経緯で征夷大将軍となった?ドタバタの連続だった54年の生涯

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後醍醐天皇との軋轢

この時点で足利尊氏が新たに幕府を作ろうとしていたのかどうか。

彼の真意はハッキリしませんが、行動は迅速でした。

天皇の許しを得ないまま、鎌倉へ猛スピードで進軍したのです。

後醍醐天皇はこれに驚き、慌てて尊氏に「征東将軍」の位を与えて、行動を追認する形を取りました。

「東の蛮族を打つ権限は与えるが、幕府を作るのは許さない」という意思表示かと思われます。

このときから少しずつ、尊氏と後醍醐天皇の間に溝ができていきました。

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北条時行軍から鎌倉を奪い返した尊氏は、この後、従二位に昇格されながら、上洛を拒んで鎌倉に留まります。足利直義の意見を容れたためのようです。

「再び北条時行らに入られては困るので、それを警戒した」ともとれますが……遠く離れた京にいる後醍醐天皇の警戒心を煽ることにしかなりません。

「やっぱアイツ幕府作る気じゃん! すぐ潰さないと!!」

として、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じました。

こうして、今度は源氏同士で戦う、お決まり……もとい悲劇の構図になりました。

歴史を辿ると「源氏って何回仲間割れするのよ?」とツッコミたくなるかもしれませんが、このときは天皇がかなり絡んでいる分、問題がこじれにこじれます。

尊氏としてはやりたいことをやっただけであって、後醍醐天皇に逆らうつもりはなく、驚くばかり。

髪を落としてお寺にこもり、謝意を示しましたが、既に新田軍は鎌倉へ迫っていました。

やる気を出さない尊氏に代わって、直義たちが迎え撃ちますが、戦況は圧される一方でした。

「直義が殺されそう」

「重臣の高師直もヤバそう」

そんな報を聞いた尊氏は『弟や部下が死んだら俺が生きていても意味がない』と気を取り直し、兵を挙げます。

そもそも「弟を失うと自分もヤバイ」という考えで関東まで来ていたわけですしね。

元々その寛容さや、いざというときの肝の座りようで、部下からは絶大な信頼を受けていた尊氏。

彼が出てきただけであっという間に足利軍の士気は上がり、義貞を押し返して京都へ向かいました。

後醍醐天皇は比叡山へ逃げこんだものの、安心とはいい難い状況。

ここで後醍醐天皇を救うため、北畠顕家という公家が遠い陸奥の地から驚異的なスピードでやってきました。

奥州将軍府(後醍醐天皇が作っていた東北の統治機関)を任されていた顕家は、凄まじい進軍速度でやってきて、義貞や楠木正成と京都付近で合流し、尊氏は京都から退いて西へ。

 

幕府創始者 一度は死に物狂いで逃げる法則

源頼朝が挙兵直後に石橋山の戦いで大敗し、安房へ逃げたときといい。

徳川家康の【神君伊賀越え】といい。

幕府創設者は一度死に物狂いで逃げなくてはいけない――みたいな法則でもあるのか。

あるいは「死に物狂いの状況から立て直せるような人だけが、新たな政権を作れる」ということなのか。

北畠顕家が上方にとどまっていれば、その後の展開はかなり変わったかもしれません。

しかし後醍醐天皇は足利尊氏を一旦追い出したことですっかり満足&安心してしまったようで、顕家を陸奥へ戻してしまいます。

一方、尊氏は、光厳上皇(後醍醐天皇が流刑に遭っていた間に即位した天皇・125代の中には含まれていない)に連絡を取り、院宣(上皇の命令)をもらいました。

この辺は皇室の問題である【両統迭立】が絡んでおり、後醍醐天皇は「大覚寺統」、光厳上皇は「持明院統」という皇室内の別系統だったので、いわば政敵同士だったのです。

そして足利軍が西へ向かう間に光厳上皇から返事が届き、尊氏は西国の武士をまとめることに成功しました。

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実はこの道中で尊氏は

「帝に逆らうなんて嫌だ!切腹してお詫びするしかない……!」

と、味方が望んでいない方向の覚悟を決めようとし、直義や師直らが

「兄上(殿)なら大丈夫ですよ!!」(※イメージです)

と励まし続けたことにより、再起できたという経緯もあります。

この時点で尊氏を見捨てて直義を旗頭にしても良さそうなものですが、そうしないあたりが兄弟仲の良好さをうかがわせますね。

漫画『逃げ上手の若君』では、尊氏が人外の力を手に入れて人々を魅了した……というファンタジックな流れになっていますけれども、むしろそっちのほうが納得できてしまうくらいに不安定なトップでした。

いずれにせよ、こうして戻ってきた尊氏軍と、天皇方の義貞・正成が【湊川の戦い】で激突。

結果、正成と楠木一族が自害し、後醍醐天皇方の戦力は大きく削がれました。

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足利尊氏は、軍を引き連れ、再び京都へ。

この辺が尊氏vs後醍醐天皇のクライマックスでしょうか。

余談ですが、湊川へ赴く前あたりに、尊氏は新たな趣味を見つけたとされています。

地蔵菩薩の夢を見たのがきっかけで、地蔵菩薩の絵を描くようになったのだそうです。

これはいくつか現存しており、かなり上手です。

ただ『足利尊氏筆日課観音地蔵像』という作品は、同じ紙に観音菩薩や地蔵菩薩が横に連続で描かれていて少々恐ろしげにも見えます。

『足利尊氏筆日課観音地蔵像』/栃木県立博物館HP(→link

裏にも描いているため、どちらの面から見ても常に裏の絵が透けているからですかね。

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