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【足利尊氏】
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有能な君主のもとで、忠実な武働きを望んでいた?
あくまで後醍醐天皇を立てるべく、和議を申し入れます。
後醍醐天皇もこれを受け入れ、光厳上皇の弟・光明天皇に三種の神器と天皇の位を譲り、やっと尊氏vs後醍醐天皇の争いは収束しました。
また、尊氏は征夷大将軍の地位を認められ【建武式目】を作り、室町幕府を創始します。
厳密にいえば室町幕府という名前は後々つけられたものなのですが、後世からみるとここでそう呼んでしまっても差し支えないかと。
色々やりすぎたと思ったのか、このあたりで尊氏は清水寺にこんな起請文を出しています。
「この世は夢のようなものだし、私はもう世を捨てて山にでも入ってしまいたい。この世での栄誉は全て直義に与えてください」
現世に嫌気がさすのはわからなくもありませんが、ならば再起などせず九州で出家すればよかったのでは?というツッコミも……。
湊川の戦いを経て、急激に気分が変わったんでしょうか。
ともかく、一件落着したかに見えた情勢ですが、後醍醐天皇はまだ諦めていませんでした。
「この前渡した神器は偽物だから、まだワシが天皇だよ~ん!!」(※イメージです)
と言い張り、吉野へ逃げて南朝を作ってしまうのです。
天皇ともあろう方が、これはさすがに強引過ぎるでしょう。
ちなみに、湊川の戦いの前にはこんなやり取りがあったとされています。
楠木正成が
「陛下にいったん京都から逃げていただければ、尊氏を誘い込んで兵糧攻め&挟み撃ちできます」
と献策したのに対し
「天皇がそんなにしょっちゅう逃げられるか!」
という見栄っ張りで退けた……というのです。
それなのに一旦和議を結んだと見せかけて逃げたのですから、正成は後醍醐天皇の夢枕に立ってもいいくらいですね。
さらに後醍醐天皇は各地方に自分の皇子を派遣し、威光で各地の足利方を味方につけようと考えました。
しかし足利方もそこまで単純ではありません。
まずは北陸へ逃れていた新田義貞と、彼に庇護されていた後醍醐天皇の皇子恒良親王・尊良親王を攻略すべく、高師直の弟・師泰を派遣。
師泰は彼らのこもる越前・金ヶ崎城を攻め、恒良親王を捕縛し、尊良親王を自害に追い込みました。
義貞は生き延びましたが、越前藤島の戦いで討死。
再び西上した北畠顕家も、暦応元年(=延元三年・1338年)に和泉・石津で戦死し、さらにはその翌年、後醍醐天皇自身が崩御してしまいます。
その際、息子の後村上天皇に「北朝を絶対に許すな!」(超訳)と遺言していたため、その後もしばらく南朝と北朝の対立は続いていきます。
尊氏・直義は、さすがに良心の呵責があったのか、後醍醐天皇の供養を盛大に行いました。
後年には京都にお寺を築くため、大陸への貿易船を出して費用を賄っています。
後に築かれたお寺の名を取って「天龍寺船」と呼ばれているものです。
今度は弟・直義と史上最大の兄弟ゲンカへ
幕府を開いた足利尊氏は、弟・直義に政治を任せ、自分は軍事の最終決定権+αと名目上のリーダーとしての立場を守ろうとしました。
しかしこの構図は、やがて部下からの反感を買い、今度は【観応の擾乱】という悲劇に突入していきます。
元々は尊氏ではなく、重臣の高師直と直義の対立がきっかけだったのですが、これが根深いもので。
それぞれの価値観をまとめると
【直義】
「皇族や公家の立場を尊重し、荘園も認める」
【師直】
「天皇などハリボテで十分!土地は手柄を上げた武士に全て配るべき」
だいたいこんな感じで、平行線もいいところでした。
尊氏がどちらにつくか明確にしなかったことも、乱を長引かせる一因になっています。
そんな中で南朝方の楠木正行(正成の子)が旗揚げし、高師直がこれを討つと、師直はそのついでに直義も狙おうとしますが、さすがに尊氏が許しません。
代わりに直義をいったん政務から遠ざけて、師直をなだめました。
鎌倉を任されていた息子・義詮を京都に呼び寄せ、直義の仕事を引き継がせつつ後見を師直にすることで、高氏一族を封じようと試みています。
師直としては直義から実権を奪えればそれで良いですし、主人の息子に逆らう気はなかったでしょう。
観応の擾乱で先に退場したのは師直ですが、そのぴったり一年後に直義も急死してしまいました。
詳しくは直義や観応の擾乱の記事で触れますが、「尊氏との戦に負けた直後」というのがなんとも怪しく、現代でも直義の死因については意見が割れています。
尊氏の視点で意地の悪い見方をすれば、
「弟も師直も幕府を作るまでは役に立ってくれたけど、争いの火種が続くぐらいなら、潰し合ってくれたほうが助かる。残った方は適当に始末しよう」
という流れでもおかしくなさそうですが、考えすぎですかね。
娘の鶴王を喪ってしまい……
直義が亡くなる直前、地元の上野に戻っていた新田義貞の息子義興らが体制を立て直していました。
足利尊氏はこの動きに対し、次男の足利基氏を鎌倉に呼び、しばらく同道して新田軍を破っています。
一方、上方にいた足利義詮のもとには直冬が迫っており、一度は京都を占領するほどでした。
義詮はいったん逃げた後、機を見計らって入京、同時期に尊氏も鎌倉から京都へ戻っています。
この辺の尊氏は、正室の間に生まれた息子二人を平等に扱っている感じがありますね。
それを察したのか、義詮と基氏はお互いを尊重して動くようになります。父と叔父から学んだのでしょう。
そして、この一連の騒動の後、尊氏は病気がちになっていきます。
既に40代後半でしたから、寄る年波もあったはず。
しかも文和二年(1353年)には娘の鶴王が病で亡くなってしまい、精神的なダメージを受けたと思われます。
尊氏は息子には多く恵まれたものの、娘は彼女一人しかおらず、政治的にも人の親としても大切にしていたはず。
鶴王の三回忌である文和四年(1355年)に従一位が追贈されているのですが、無位の女性にいきなりこのような高位が与えられるのは前代未聞のことでした。
尊氏夫妻のゴリ押しで実現したとされているのですが……尊氏は頃合いを見て、鶴王を年の合う皇族に入内させるつもりだったのでしょうか。
その場合、頼朝の娘たちと状況が被ってなんともいえない気持ちになります。
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一方、この頃の九州には後醍醐天皇の皇子の一人・懐良親王が西征将軍として滞在しており、地元の武士・菊池氏が援護していました。
尊氏が亡くなる間際、西国の憂いはまだまだ残っていたともいえます。
そのため延文三年(1358年)には、自ら九州征伐に赴く意向を示しながら、病には勝てず亡くなってしまいました。
享年54。
まさに波乱に満ちた生涯でした。
◆
あくまで私見ながら、鎌倉・室町・江戸の三幕府をそれぞれ比較してみると、さまざまな面で
「創業者の方針・性格が幕府の性格を決める」
ように思えてきます。
自分の兄弟よりも妻の実家を信頼し、結果として嫡流を途絶えさせてしまった源頼朝。
よくわからん言動で周囲を翻弄し、後々のトラブルの種を残した足利尊氏。
健康に気を使って長生きし、後顧の憂いになる懸念点を自ら片付けていった徳川家康。
現代の我々も、特に尊氏の悪いクセから学べることは多いのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
清水克行『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon)
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
国史大辞典
ほか