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【和田義盛】
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畠山重忠の乱
元久二年(1205年)6月、今度は畠山重忠に謀反の疑いがかけられます。
発端は酒席で起きた些細なこと。
北条時政の後室・牧の方の娘婿である平賀朝雅と、畠山重忠の息子・畠山重保が、口論になったというものです。
平賀朝雅(時政と牧の方の娘婿)
vs
畠山重保(重忠の息子)
朝雅は、頼朝の猶子でもあったため、牧の方は「重忠は謀反を起こそうとしているのです!」とこじつけ、時政に重忠討伐を願います。
さすがに屁理屈にすらならない話ですよね。
「重忠殿のこれまでの忠勤や日頃の態度は疑いようもなく、謀反など起こすわけがない」
と最初は断ります。
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しかし、牧の方の兄に「継母(牧の方)に味方したくないだけだろう」となじられ追い込まれ、ついには討伐に賛同せざるを得なくなったとされます。
義時が畠山氏討伐の総大将となり、和田義盛も討手に加えられました。
前述の通り、かつて義盛と重忠の間には幾度かのトラブルがありましたが、同時に双方とも幕府創立の功労者です。
今さら謀反を起こすなど考えられないし、だいいち動機もない。
そんな相手を討伐するというのは、嫌悪感も罪悪感も相当激しいものだったでしょう。
実際に『吾妻鏡』では、義時は重忠の首を見て討伐を後悔し、牧の方と父を排除することを決めたとされています。
北条氏の立場から記された『吾妻鏡』とはいえ、「武士の鑑」とされた畠山重忠を討つというのは、よほどのことだったに違いありません。
重忠討伐からおよそ二ヶ月後の元久二年(1205年)閏7月。
今度は「牧の方が源実朝を廃し、平賀朝雅を将軍にしようとしている」という噂が流れました。
確かに朝雅は頼朝の猶子ですが、実子の実朝を飛び越えるのは流石に無茶な話。
実朝の母である北条政子や、叔父として実権を握れる立場の北条義時からすれば、とても見逃せるものではありません。
しかし父の北条時政は牧の方側についてしまい、一族内にメラメラと不協和音が生じてしまいます。
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政子と義時は覚悟を決めました。
父と継母一派をまとめて政治から遠ざけることにし、さっそく行動に移します。
源実朝は、当時、祖父である時政の屋敷にいたのですが、三浦義村たちに命じて義時の屋敷へ移動。
このとき警備のため時政邸にいた御家人たちも政子・義時側についたといいますから、やはり重忠を討った一件で時政は決定的に人望を失っていたのかもしれません。
時政と牧の方は孤立したことを悟って出家すると、程なくして鎌倉から追放されました。
将軍候補に担がれた朝雅は京都にいて、間もなく幕府の手の者によって殺害。
その後、時政は地元の伊豆北条で隠居し、建保三年(1215年)に病死しました。
牧の方は時政の死後、朝雅の元妻でもある自分の娘が再嫁した公家のもとに身を寄せたとも伝わります。
二人を処刑しなかったのは、政子や義時のせめてもの情けというところでしょうか。
この件は「牧氏事件」と呼ばれています。義盛の名は全く出てきませんが、他の件との比較のために書かせていただきました。
討伐軍が編制されれば、義盛は侍所別当として動かざるを得ません。
しかし、牧氏事件のように【北条氏の内紛】かつ【軍が動いていない】とき、義盛は出てきません。
あくまで職務に忠実であり、北条氏と敵対する意向はない……というのが、この頃の義盛の意向だったと思われます。
上総介
和田義盛には、ある目標がありました。
上総国司の座に就くことです。
上総は親王しか国守になれない決まりでしたので、武士である義盛は次官である上総介ということになります。
といっても上総の国守になった親王が実際に現地へ来るわけではありませんので、実質的な上総の国守は上総介と言っても過言ではありません。
承元三年(1209年)、義盛は上総介に就きたいという望みを、内々に源実朝へ申し出ました。
実績はすでに充分だったため、実朝としては望みを叶える意向だったようです。
しかし朝廷へ勝手に打診するわけにもいかないので、母の政子に相談すると……。
「頼朝様が『御家人が受領になることは禁じる』とお決めになったので、義盛殿の望みは叶えられません」
とつれない返答。仕方なく実朝はそのまま義盛に伝えます。
受領というのは、実際にその土地に赴任する役人の中で一番エライ人のことです。上総介もこれに含まれます。
各国のトップは国司ですが、実際には赴任しない者も多々いたため、区別する呼び名ができたんですね。
現代に無理やり置き換えるとすれば、
国司=本社のお偉いさんが名前だけ地方の営業所の所長を兼務している状態
受領=実際に営業所で働く人達のトップ
みたいな感じでしょうか。
もちろん実際に領地へ赴任する国司もいました。
また、鎌倉幕府には、皆さんご存じの通り、守護と地頭という役目が存在します。
◆国司・受領は朝廷
◆守護・地頭は幕府
つまり義盛の言い分は「御家人のまま朝廷の役職につきたい」ということにもなるわけで、これが非常にまずい。
将軍の推挙によって、名目だけの官位を得るのなら問題はありません。それはあくまで名誉だけにとどまるからです。
しかし国司となると話が違います。
特に上総介は「親王の代理」ですから、幕府よりも朝廷との結びつきが強まりかねません。
となると、かつての義経のようなトラブルの種になってしまうわけで……。
やっと安定し始めた鎌倉幕府で、そんな種を蒔く訳にはいかないというのが政子の言い分でしょう。
頼朝がはっきり決めておいてくれたのも、北条氏側にとっては幸運でした。
御家人を納得させるのに、これ以上ない大義名分となります。
しかし諦めきれない義盛は、大江広元を通じてこれまでの勲功を訴えたりもしますが、やはり却下。
幕府としても絶対に譲れない一線であるので、いくら功労者と言えども受け入れることはできません。
ただ、義盛が憤懣やるかたないといった心境になったであろうことは間違いないでしょう。
義時による挑発行為
そして運命の建保元年(1213年)2月――。
信濃の武士・泉親衡が、頼家の遺児である千寿丸を擁立するため、実朝を暗殺しようとしている。そんな計画が発覚します。
和田義盛はこの一件とは無関係でした。
しかし、義盛の息子である和田義直・和田義重、そして甥の和田胤長が陰謀に加担しようとしていたため、当然のことながらお咎めを受けます。
義時にとっては、和田氏を除く絶好の機会でした。
領地の上総にいた義盛は、知らせを聞いて慌てて鎌倉へ戻り、赦免を願い出ます。
その結果「義盛のこれまでの功績に免じて」という理由で息子たちは許されましたが、胤長はその対象にならず、陸奥への流罪となってしまいました。
義盛以下、和田一族はどうにか胤長も赦免してもらえるよう、90名もの大人数で実朝に嘆願もします。
しかし許されません。
それどころか胤長は一族の目の前で縄にかけられるという恥辱を受ける展開。
胤長の屋敷は召し上げられると、義盛も必死になって願い出ました。
「罪人の屋敷は縁者に下げ渡される慣わしです! どうか自分にお与えください!」
と、これは一旦許されたものの、すぐに義時は別の御家人に胤長の屋敷を与えてしまいます。
約束を反故にするのもまずいですし、和田一族に重ねて恥辱を与えたようなものです。
しかもこのとき、胤長の幼い娘が「父が流刑になった」ということを悲しんで病みついてしまいました。
心配した周囲が「胤長によく似た和田朝盛(義盛の孫)を見せて、”父が帰ってきた”と思わせて元気を出させよう」としたのですが……娘はあえなく死んでしまったといいます。
良くも悪くも情に厚い義盛。
一族の幼い子供の死を怒り悲しんだことは想像に難くありません。
義盛はついに、反北条の兵を挙げる決意を固めます。
さすがにここまでくると、潜在的には北条氏へ反感を持つ者もいました。そうした人々と連携し、兵力を確保しようとしたのです。
しかし、和田一族の中でも反対する者がいました。
先述の和田朝盛がその一人です。
彼は実朝に寵愛されていたため、実朝の身まで危うくなるようなことには賛同しかねたのだとか。そして悩んだ末、密かに出家して逃げ出したところ、義盛に追手を放たれて連れ戻されてしまいました。
これがまた噂のタネとなり、鎌倉では「和田の挙兵は近い」といわれ始め、ついに実朝の耳にも入ります。
和田合戦
建保元年4月27日、騒乱になることを憂えた実朝は、和田義盛のもとに使者を送って真意を聞くことにしました。
使者に対し、義盛は答えます。
「実朝様には全く恨みはない。義時殿があまりに傍若無人なので、仔細を訊ねようとしているだけだ。北条氏が我らを尊重するならば、今まで通り忠勤に励む」
これはこれでもっともな言い分。
もしここで北条氏が権力集中よりも協調を選んでいたら、その後の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
しかし、残念ながら、義時が選んだのは前者でした。
当時、義時と義盛の屋敷は非常に近いところにあったといわれています。
具体的には、義時邸が宝戒寺のあたり、義盛邸が若宮大路沿いだったとか。軍兵の動きがあればすぐに分かるような距離です。
義時もそれは十分承知の上だったでしょう。
表面上は平静を保ちました。
最も頼りにしていた三浦義村が北条氏側についてしまったことが、義盛にとっては最大の誤算でした。
当初、義村は義盛の計画に賛成し、共に挙兵すると言っていたそうですが、その後、弟の胤義と相談して、義盛の計画を義時に密告してしまうのです。
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義村邸は、義盛邸よりも義時邸に近かったと考えられています。密告が義盛にバレなかったのはこのせいかもしれません。
義時はいったん御所に上がって実朝と政子に避難を勧め、その後自邸に戻って兵の準備をはじめました。
にわかに市中が騒がしくなり、義盛は誰かに密告されたことを悟ります。
そして5月2日、義盛はいよいよ腰を上げました。
最初は義時邸を攻めたものの、本人が不在だったため、そのまま将軍御所へ攻め寄せます。
いかに義時が憎いとはいえ、将軍のいるところへ攻め込んでしまっては、逆賊になってしまう……。
次々に御家人たちが集まり、和田軍は徐々に劣勢になっていきます。
御所で和田方と組討をした御家人の中には、親族にあたる人もいました。
結局、事ここに至ってはどちらも引けず、縁者同士で首の取り合いになってしまうのです。
そうこうするうちに日も暮れかけてきたため、和田軍は由比ヶ浜方面へ撤退。
翌5月3日の朝に武蔵の御家人・横山時兼が義盛への援軍として駆けつけたことで、士気を取り戻します。
そして再び激戦が始まりました。
予想以上の長戦ぶりに、さすがの義時も先を懸念しはじめます。大江広元も同様だったようで、二人は実朝の名で義盛討伐の命令書を発行しました。
これに多くの御家人が呼応し、再び和田勢が劣勢となります。
3日夕方までに和田一族は一人、また一人と討たれていったそうです。
そしてついに義盛の息子・義直も討たれると……義盛は声を上げて泣き
「もう戦う甲斐もない!」
と嘆いたとのこと。
義直は四男でしたが、義盛が最も可愛がっていた息子だったようで、先立たれて悲しむのも無理はありません。
そして、そんな義盛に、容赦なく江戸義範の郎党が襲いかかり、あえなく討たれてしまいました。
享年67。
★
義盛の息子たちのうち、嫡子・和田常盛と三男の朝比奈義秀は落ち延びたといわれています。
常盛は横山時兼と共に甲斐まで逃げ、そこで自害。
義秀は行方がわかっておらず、例によって生存説があります。
といっても「高麗へ逃げた」というものですので、真偽の程はかなり怪しいですね。
おそらくは和田氏に同情した人々が「生きて戦場を逃れたのだから、大陸ででも暮らしているに違いないさ」と言い始めたのでしょう。
三男・朝比奈義秀は大層な剛力の持ち主だったらしく、現在も鎌倉の切通として知られる「朝比奈切通」は義秀が一夜で作ったという伝説があるほどです。
そういう人物が悲劇的な経緯で行方不明になったのですから、トンデモな生存説が生まれるのも無理はありません。
和田義盛の死は北条一族にとっては非常に大きな一件となりました。
義盛の滅亡により、義時は侍所別当の地位をも手に入れ、鎌倉幕府はますます北条氏の専制へ向かっていくのです。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon)
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
ほか