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【和田合戦】
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泉親衡の乱
鎌倉に訪れたしばしの平穏。
その後、建暦3年(1213年)、きな臭い事態が生じます。
千葉成胤が阿静坊安念という僧侶を義時のもとへ連行しました。阿静坊安念が、怪しげにこう持ちかけたというのです。
「頼家公の遺児・千手丸(永実)様を擁し兵を挙げ、あの憎き北条義時を打倒しましょう。力を貸してくだされ!」
事実ならば、ただならぬ事態。この僧は信濃・青栗一族でした。
鎌倉は合議を開き、安念の取り調べを命じます。
そして発覚した計画は、意外にも大規模なものでした。
首謀者は泉親衡。
陰謀の範囲は信濃、相模、越後、上総、下総、伊勢にわたり、賛同者は張本130人余で、与同者200人余にものぼったのです。
彼らは、頼家の遺児である千手丸を担ぐことも画策していて、実に一年半にもわたって広範囲で暗躍していました。
この事件を【泉親衡の乱】と呼びます。
義時の挑発
事件には、千葉常胤、上総広常、八田知家、和田義盛ら、古株御家人の親族までもが加わっていました。
このとき上総にいた義盛はあわてて鎌倉に戻りました。
そして頼朝以来長年仕えてきたことを実朝に語り、子息の和田義直と和田義重の赦免を願いでたのです。
しかし、です。和田一門の残る一人、甥の和田胤長が釈放されず、義盛は一族郎党98人を率いて将軍御所で赦免を願います。
そんな和田一門の前で、信じがたい光景が繰り広げられました。
『な、なんだあれは……?』
見れば、胤長が後ろ手を縛られ引き摺られ、引っ立てられているではありませんか。なぜ、あのような屈辱的な様をわざと見せつけられるのか。
実行に移したのは二階堂行村(行政の子)ですが、その命令者と意図は明確でした。
反乱は許さん!
それが和田一門だろうと、やれるものならやってみろ――そんな北条義時の挑発です。
結果、胤長は陸奥国岩瀬に流刑となり、程なくして胤長の幼い娘は父恋しさのあまり病となり、短い一生を終えたのでした。
胤長の屋敷は、いったん義盛に与えられます。
しかし、義盛が代官を置いといたその屋敷に、北条義時の配下がやって来て退去するよう告げます。落ち着く間もなく、屋敷は義時のものとされました。
もう北条義時だけはゆるせねえ!
あの和田義盛が、そう思わないわけがありません。もはやこれまでと見ていた義時が、義盛をさんざん挑発していたのです。
怒りのあまり我を忘れたか、元からの性格なのか。義時の挑発に我慢できない義盛が建てた挙兵計画は杜撰でした。
「なんだか近々、戦になるらしいぞ……」
「そうなのか!」
鎌倉中でそう噂になるほど、義盛の軍事行動は筒抜けだったのです。
実朝はこのことに愕然とし、義盛を呼び出して実情を聞きます。すると義盛はこう答えました。
「鎌倉殿に恨みはねえんです。でも、あの相州(義時のこと)だけはどうしても許せねえ、あまりに身勝手だ! どうしてそうなっちまったか、なんとかしてぇと思ってるだけです!」
シラをきるどころか、そう答える義盛。
それでも彼には親しい一門がいます。
和田一族、縁戚横山党、波多野氏……加えて、従兄弟にあたる三浦義村・胤村兄弟も同族として味方につくと考えていました。
義村と胤村は、義盛に起請文を提出していたのです。
鎌倉で繰り広げられた和田合戦
そして運命の建暦3年(1213年)5月2日――完全武装し、当初の予定よりも一日前倒しにして和田義盛は決起します。
武装した一門たちが一堂に集結。
しかし、鎌倉の自邸でそんなことをすれば近所に筒抜けです。
八田知重(知家の子)が使者を送り、大江広元に伝えると、宴会をしていた広元は中座し、実朝に報告しました。
義時も予め知っていました。三浦兄弟が事前に告げていたのです。
「思った通りだ。和田は兵を挙げるぜ」
「そうか」
蜂起の一報を聞いた時、義時は囲碁の最中でした。
そして全く動じることもなく、囲碁の目を数え、席を立つと、出仕のために着替えて実朝のもとへ向かいます。
義時は実朝の御台(正室)と政子を避難させ、迎撃の準備を整えました。
和田方の主力は150騎。
まず彼らが実朝邸を包囲しました。義時邸と広元邸も同時に攻撃されます。
局地的であった【比企能員の乱】と異なり、広範囲を巻き込む市街戦が展開されたのです。
実朝邸は放火され、実朝は義時と広元と共に逃げ延びました。
義盛は実朝に恨みはなく、あくまで義時の横暴を問い糺したいと実朝に返していました。
興奮していたのか、それとも実朝は義時の甥だと考え直したのでしょうか。
鎌倉殿に襲いかかってしまい、もはや和田方が許される道は閉ざされました。
この戦いで屈指の武勇を見せたのが、義盛の子・朝比奈義秀です。
義秀は義時の次男・朝時はじめ、多くの武士を退けました。
しかし、いつまでも戦い続けられるわけでもありません。
人馬が疲弊し、矢も尽きてゆきます。
幕府方が巻き返す中、和田方は由比ヶ浜まで撤退しました。
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