和田合戦

和田合戦の朝比奈義秀(和田義盛の息子)を描いた二代目歌川豊国の錦絵/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

和田合戦(義盛vs義時)の結果は紙一重だった?鎌倉を戦場にした哀しき権力争い

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和田一門滅亡

翌3日の払暁(ふつぎょう・明け方)、横山党が援軍に駆けつけます。

義盛が決起を一日早めたため、この日の到着となったのですが、結果、和田方は3,000騎にまで盛り返しました。

御家人たちも勝敗が見えないためか、幕府方への味方をためらう者も少なくありません。

それでも下総からは千葉成胤も到着しました。

大江広元は実朝の名を入れた「御教書」(みぎょうしょ)を作らせます。文書で鎌倉殿の権威を示し、味方を奮起させたのです。

と、程なくして戦況が変わります。

義盛が一番可愛がっていた息子は、四男・和田義直でしたが、その義直が討ち取られたと聞き、義盛は思わず号泣してしまうのです。

「こうなっちゃ、もう、戦う意味なんてねえよ……」

そして絶望しながら戦いに挑み、ついに討ち取られ……享年67。

残る義盛の子・義重、義信、秀盛も討死し、横山党も敗北しました。

長男の和田常盛は甲斐国まで落ち延びるものの、そこで自害。

比奈義秀は船で安房へ逃げてゆきました。

孫の和田朝盛は京都、朝盛の子・佐久間家盛は安房へ逃れています。

義秀はその武勇ゆえか、巴御前の子という伝説まで作られ、生存の噂が流れました。しかし、はっきりした足取りはつかめません。

和田方の討死した者は、御家人だけでも142名にのぼり、28名が捕縛されました。

幕府方の被害も小さくなく、51人が討死し、負傷者は1,000人を超える有様です。

片瀬川の川辺には、和田方234もの首が晒されたのでした。

そしてこの合戦の翌健保2年(1214年)、14歳の僧・栄実が自殺しました。

【泉親衡の乱】で担がれるとされていた頼家の子です。

和田義盛の残党がまだ生存しているからには、栄実が再び担がれる可能性はあります。

その危険性を排除するため、頼朝と政子の孫が命を落としたのでした。

 


友の肉を喰らう犬と、その盟友

結果的に義時たちの勝利となった【和田合戦】は、決して無謀な戦いだったとも言い切れません。

突如発生し、一方的に比企一族が殲滅された【比企能員の変】と比較すると、戦闘も広範囲にわたり、参加者も多かったのです。

比企能員
比企能員はなぜ丸腰で北条に討たれたのか? 頼朝を支えてきた比企一族の惨劇

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義盛が挙兵を一日早めたこと。

三浦義村・胤村が裏切ったこと。

こうした不利な条件がなければ、義盛の宿願である北条義時誅殺が叶った可能性もあります。

義時にとっては薄氷の勝利でした。

そしてその結果は、義盛の意図とは正反対に突き進んでゆきます。

この戦いで勝利を決定する大きな役目を果たし、それに見合う利を得た人物がいました。

三浦義村です。

三浦一族の宗家当主は義村でありながら、20歳以上も年上である義盛が実質的に一族を率いているという見方がそれまでは当然でした。

任官の上でも、義盛は義村をしばしば上回っていました。

そんな邪魔な義盛を子とまとめて滅ぼすことで、三浦一族宗家の座は安泰となったのです。

しかし、そんな義村に対する辛辣な味方を示す逸話も残されています。

承久元年(1219年)正月のこと。

その日、御家人たちが集まり、義村が良い席に座っていると、まだ若い千葉胤綱(成胤の子・12歳)が堂々とやってきて腰を下ろしたのです。

カチンときた義村は毒舌を吐きます。

「下総の犬は自分の寝床も知らねえのか」

「三浦の犬野郎は友の肉を食うってな!」

孫のような小僧に辛辣な言葉を浴びせられ、さすがの義村も堪えたようです。

胤綱は【和田合戦】当時、まだ幼児でしたので、この発言は父・千葉成胤の愚痴あってのものでしょう。

成胤は【泉親衡の乱】発覚に大きな役割を果たし、【和田合戦】でも奮戦しながら、勝敗を決する大きな手柄となったのは三浦義村の裏切りと、その後の適切な行動でした。

一門の肉まで食らって出世したいか!

成胤が我が子の前でそう嘆いていたからこそ、息子の胤綱も咄嗟に言い返せたのでしょう。

その結果、後世でこの「三浦犬は、友をくらふ也」という台詞は、義村を評する言葉として定着してしまいます。

しかし、義村が悪名と引き換えに、三浦宗家の座と、幕府での発言権を得たのも事実。

このやりとりも、嫉妬されるほど的確な動きをする義村の人物像をよく示す逸話に思えます。

ただし……。

その義村以上に大きな果実を手にしたのが北条義時でした。

【和田合戦】の影響は広範囲に及び、またもや北条に反抗的な坂東武者たちの力が大きく削がれたのです。

侍所別当である和田義盛は討死し、義時が就任。

すでにこの時、政所別当にも就いていて、義時は軍事と政治、両方の頂点に立ったのです。

二代目執権――かくして鎌倉幕府の頂点は北条氏となり、その滅亡まで続きました。

『鎌倉殿の13人』で義時は、頼朝の政治手腕を学びました。

御家人誰か一人に権限を集中させてはならないことも、繰り返し主張しています。

その集中した権力が思わぬ経緯を経て、義時のもとへ転がり込んだ。

政所別当に続き、侍所別当の地位まで手にしたとき――頼朝から学んできた義時は何を思ったのでしょうか。

強大な権力を手にするためならば流血を辞さない姿も、義時は学んでいます。

和田義盛一族の死も“必要悪”だと割り切る伏線は、ドラマの中で既に張りめぐらされています。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon
細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』(→amazon
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon
坂井孝一『源氏将軍断絶』(→amazon
坂井孝一『源実朝』(→amazon

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