鎌倉幕府の文士

源頼朝と大江広元/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

鎌倉幕府の設立・運営に欠かせなかった広元や親能たち「文士はどこへ消えた?」

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文官上位が崩れる日本史

それならば武官にも試験を課せばよいではないか?

そこで本人の資質を見極めればよかろう……ということで、実際に、武官選抜の試験である「武科挙」が宋代に実施されています。

ただし、難易度は科挙よりも低く、文官と武官の官位が同じであれば、文官が上位となり命令を下します。

戦場でも同様。

とにかく文官による統制が徹底されていたのですね。

しかし、日本では、どうにもその認識が甘かった節があります。

文官上位は、日本にも当初はありました。

律令制では官位で差をつけ、武官である武士は「昇殿ができない」といった制限をつけていた。

それがだんだんと崩れていきます。

背景にあったのは、政治闘争でした。

権力争いにおいて武力を用い、その行使者として武士を味方につける。

その最たる動乱が【保元の乱】とか【平治の乱】であり、こうした闘争の論功行賞が行なわれていく過程で、絶大な力を有したのが平清盛です。

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摂関家がそうだったように、平家の血を引く娘を入内させ、権力を握る。

日宋貿易を独占し、経済力を確かなものとする。

こうした歴史の流れの中で、日本の「文官上位」「文民統制」は崩壊しました。

 

文官、鎌倉に入る

我が世の春を謳歌する平家。

一方、それに対抗すべく立ち上がった源氏の源頼朝

頼朝は鎌倉に坂東武者たちを住ませると、朝廷の影響力から離れて土地の分配を始め、かくして鎌倉幕府は芽生えます。

しかし、武力で土地を支配しても、それだけでは到底足りません。

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文書の管理は?

裁判は?

と、統治・行政能力に関して何もかもが不足していたのです。

当時の坂東武者は、戦の場面では怖いもの知らずだった反面、そうした実務を学ぶ機会はなかなかありませんでした。

たとえ京都で仕える機会はあっても、行政能力を研鑽するかどうかは個人の努力や力量次第。

梶原景時のように知識を蓄えた者もいれば、そうでない者もいます。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の劇中でも、上総広常が文字を練習しているシーンがありました。

あまりに拙い字であり、頼朝に嘲笑されているのは、見ていて胸が苦しくなったものです。

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あるいは北条義時は、このままでは「行政を担えない」として、頼朝に能力のある人材を増やすよう依頼しました。

そして三善康信の推挙を受け、京都から鎌倉に到着した文官出身者は以下のメンツです。

中原親能大江広元の兄であり、源頼朝とは幼馴染だった

大江広元:中原親能の弟(元々は下級貴族)

藤原行政:後に二階堂行政を名乗る。二階堂氏が頼朝と遠い親戚にあたり、それを頼って鎌倉入りを果たす

彼らが揃い、鎌倉にもようやく行政能力が備わったのです。

源頼朝の母である由良御前は、朝廷と関わりの深い人物でした。

叔母が頼朝の乳母であった三善康信も、重要な役割を果たしますが、頼朝には最初から朝廷との人脈があったんですね。

頼朝が幸運だったのは、それだけではありません。

冒頭の光源氏の話を思い出してください。

・当時の平安貴族は、実力ではなく血縁重視

・大学で学んで出世を狙うなんて、所詮は下級貴族だけ

・能力高い下級貴族は、当然ながら不満が溜まる

そんな苦境にあり才能を持て余していた者たちが、鎌倉という場所で羽ばたいた。

彼ら文官も、のびのびと実力を発揮していったのです。

吾妻鏡』において、彼らは武士に対する「文士」と称されます。

現在「文士」という単語は作家やライターを指しますが、当時は彼らのような文官を指し、京都から持ち込まれた制度や知性が御家人にも広がってゆきました。

しかし武士政権の中で、文士は消えてゆきます。

武士が文武両道となってゆく最中に、消えたというより融合していったのです。

中国や李氏朝鮮では重要視されていた「文官武官の区別」と「文官上位」の法則。

日本では溶け合いながら頂点に立ちました。

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